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hkmaroのブログ

読書の感想など

ニーチェ『ツァラトゥストラ』より

ツァラトゥストラ (中公文庫)

ツァラトゥストラ (中公文庫)


 創造する者たちよ、高人たちよ。産まざるをえないとき、人は病気である。産みおえたとき、人は汚れている。
 女たちに問うがよい。産むのは、慰みのためではない。苦痛に堪えかねて、雌鳥も詩人も声をしぼって鳴くのだ。
 創造する者たちよ。あなたがたには、多くの汚れがある。それは、あなたがたが母にならざるをえなかったからだ。
 一人の新しい子どもの誕生。おお、いかに多くの新しい汚物が、それとともにこの世に生まれ出たことか。避けるがいい。そして産みおわった者は、おのが魂を洗いきよめるがいい。(太字強調は引用者による)

   ニーチェツァラトゥストラ手塚富雄訳、中公文庫

この部分に関して、訳者の手塚富雄は注で以下のように解説している。


 この節では、創造を出産にたとえ、それに苦しみ、汚れがともなうことをもいう。創造の美化ではない。創造に際しては、精神は疲労困憊するし、見るに堪えぬ精神的汚物の副産物もあるだろう。それらを洗いきよめ、精神の健康を回復せよ、というのであろう

この解説に対し、五年前にこれを読んだ私は、余白の少ない文庫本にわざわざ手塚富雄に対する反感を記している。私は、これは手塚が言うような創造という実作業の即自的な負の側面をわざわざニーチェが指摘しているのではなくて、あらゆる創造は必然的に否定されるべき相を持つのではないか、という相対主義的な反論を書いている。いまもこの私の解釈は間違っているとは思わないし、バタイユの無頭人という理念も基本的にそういう考えだ。無頭であるということは複頭であるということであり、複数の理念がポレミックに争いあうということである。このポレモスはニーチェが論じたヘラクレイトスの哲学と同じである。さらに言えばアドルノの否定弁証法もこういう考え方だろう。では一頭であるとはどういうことか。ファシズムである。スターリニズムである。全体主義である。コミュニオンである。合一化である。悪しき合理主義である。無論、民主主義だろうが多文化主義だろうが自由主義だろうが、それのみが理念として称揚される限り一頭的である。民主主義は封建主義に、多文化主義は共同体主義に、自由主義は保守主義に、理想的な敵としての足場を与えてやらねば本質的に民主主義でも多文化主義でも自由主義でもあり得ない。哲学者は常に無頭でなければならず、それはとりも直さず複数の頭を維持すること、そしてそれらを相争わせることによって可能になる。哲学者はそれゆえ本来民主主義者でも多文化主義者でも自由主義者でもあり得ず、ましてや共産主義者でもあり得ない。が、もしその本質に無頭性を持つような思想があれば、それは哲学者の思想である。頭を持たぬ者たちの共同体が仮にあるとするならば、そしてそのような共同体が決して別の頭を形成せぬならば、それは哲学者の思想である。そしてそういうものこそが共産主義なのだという論理があるならば、確かに哲学者は共産主義者でなければならない。しかし、実際のところそのような共産主義はもはや共産主義とは呼ばれえず、それはすでにアナーキズムなのではないだろうか。では哲学者はアナーキストでなければならないのだろうか。そうとも考えられない。アナーキストは力を持たないからだ。力は頭を持つからこそ生まれる。ということは哲学者はやはりアナーキストというよりも、常に何か仮の勢力に依拠して現世を否定するものである。しかしそうすると自民党が幅を利かせていたら民主党に肩入れし、民主党が幅を利かせていたら自民党に肩入れするのが哲学者ということになるのだろうか。反米が流行っていたら反スタを唱えるのが哲学者ということになるのだろうか。一方が隆盛のときは他方から批判し、他方が隆盛のときは一方から批判するのが哲学者だろうか。そうすると柄谷行人は日本の哲学者ということになる。本当にそうなのだろうか。亡命知識人はみな哲学者ということになってしまわないだろうか。亡命知識人なるロマンに対する私の反感は、全くのまちがいなのであろうか。哲学者や知識人とは、逆コウモリみたいな存在ということになる。では、ごく大雑把に細部を無視して言えば、民主党を推進して自民党を批判していた人間が、民主党が政権をとった際に今度は自民党に依拠してそれを批判するような人間が哲学者なのか。そういう人間は、ときに「恥知らず」という古風な批判を免れ得ないのではないだろうか。哲学者とは、知識人とは、信用の置けない人物ということになる気がする。