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読書の感想など

アセファルより、「ヘラクレイトス」――ニーチェのテクスト

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

無頭人(アセファル) (エートル叢書)

 ヘラクレイトスは誇り高い人だった。そして哲学者が誇りを持つにいたるとき、その誇りは大いなる誇りである。彼の活動はけっして彼に、「公衆」を、群集の相手を、あるいは同時代者たちのへつらうような合唱を、求めるようにしむけなかった。孤独に道を歩き去ることは、哲学者の本性に属している。哲学者の才能はこのうえなく稀有なもので、ある意味では自然に反したもの、しかも同種の才能に対しては排他的で、敵意を含んでいるといっていい。哲学者の自己充足の壁は、壊れも崩れもしないためには、金剛石でできていなければならない。というのもすべてが彼に敵対して動いているのだから。不死性をめざす哲学者の旅路は、他のどんな旅路よりも障害と苦難に満ちている。しかしながらその旅路において、目的地に行き着くであろうことを、哲学者ほど確信しているものはない――あらゆる時代に広げられた翼のうえ以外には、彼は立つべき場所を知らない。現在的なものや刹那的なものを顧みないということは、偉大な哲学者の本性をなしているのだから。彼は真理を所有する。時の車輪はどんな方向へでも、好きに転がって行くがいい。どこへ行こうと、それが真理をはずれることはないだろう。こういう人間たちがかつて生きていたのだということを知るのは重要なことである。それを知っていれば、ヘラクレイトスの誇り高さを無駄な可能性であると想像するようなことは、断じてないだろう。認識に対するどんな努力も、その本性からいって、永遠に満足することはないし、また人に満足をあたえることもないように見える。だから、歴史に教えてもらわないかぎり、自分だけが祝福された真理の求愛者であるという確信が与えるような、あれほど王者のような自己評価がありうるなどと、誰も信じる気にはなれないだろう。このような人間は彼ら自身の太陽系に生きている。彼らに会いに行く場所もそこでなければならない。ピュタゴラスやエンペドクレスのような人物もまた、超人的な敬意をもって、ほとんど宗教的な畏れをいだいて、自分自身を扱った。しかし魂の輪廻と、生きとし生けるすべてのものが一体であるという大いなる確信に結びついた慈悲の絆によって、彼はふたたび他の人間たちのもとへ、彼らの救済のために赴いたのだ。アルテミス神殿のあのエフェソスの隠者の心にしみ通った孤独感について言えば、もっとも荒涼とした山岳地のただなかでしか、人はそれに類する何かを感じることができないだろう。どんな強力な慈悲の感情も、人を助け、癒し、救済したいというどんな欲望も、彼の内から発することはない。彼はまわりに大気を持たない一個の星なのである。彼の眼の熱意のすべては内部に向けられており、外部に対しては、まるで本当の幽霊のように、生気の失せた冷たい眼差しを注ぐのみである。まわりはどこをむいても、狂気と倒錯の波が、彼の誇りの城西の壁にうち寄せてくる。彼は嫌悪をもってそれから身をそむける。しかし敏感な心を持った人間たちのほうも、青銅で鋳たような、こんな悪霊を避けようとする。人里離れた神殿のなか、神々の像のあいだ、冷たく、静かで、えも言われぬ建造物の庇の下になら、このような存在がいることをまだ考えることができる。人間たちのあいだにいるとき、ヘラクレイトスは、人間としては、考えがたい存在であった。騒がしい子供たちの遊びをじっと見てる彼の姿がよく見かけられたというのが確かであるとしても、そうしながら彼が考えていたことは、そのような場合にどんな人間も考えないであろうような何か、つまり偉大なる宇宙の子供ゼウスの遊戯だったこともまた確かである。彼は他の人間たちを必要としなかった。自分の認識のためにさえ必要としなかった。他の人間たちにたずねることができるような問いのすべても、彼以前に賢者たちがたずねようと努めてきた問いのすべても、彼は人にたずねようとしなかった。彼は、問いただし情報を蓄積するこうした人間たち、つまり「歴史的な」人間たちについては軽蔑をもって語った。「わたしはわたし自身を求め、探求した」と彼は、神託の検討を言い表すのに用いられる語を使って言った。まるで自分が、デルフォイの教義「汝自身を知れ」の唯一の真の実行者であるかのように。


 事物そのものが確固として動かぬものであると思いこんでいるのは、人間や動物の窮屈な頭だけで、事物そのものはいかなる固有の存在をも持たない。事物というのは、鞘走る剣の輝きであり火花であり、対立する品質どうしの戦いにおける勝利のきらめきである……火のなかですべてが焼き尽くされてしまう状態は、満腹の状態である……満腹は罪(傲慢[ヒュブリス])を生む……世界の歴史のすべては傲慢の罰なのではないか。多数性は、罪の結果なのではないか……火は……遊び……、水と土に変わりながら……、子供のように砂の城をつくり……、それを築いては壊し……そして遊戯を最初からやりなおす。満足は一瞬である。次の瞬間には、欲求がまた彼を襲う……新しい世界に誕生をうながすのは、罪の本能ではなくて、つねにあらたに目覚める遊戯への嗜好である……
   ニーチェ、『ギリシアの悲劇時代における哲学』(各所)

 ヘラクレイトスがこの神託のなかに見いだしたことについて言えば、彼はそれを、巫女の予言の語りにならって、遠い未来まで無限の影響力を及ぼす叡智、不滅にして永遠に解釈されるに値する叡智とみなしていた。それは最も遅れてやってくる人類にも、十分に通用する。そのために、その人類は、ヘラクレイトスデルフォイの神のように「露わにも言わず、隠し立てもしない」事柄を、ただ神託の文句のように解釈すればいいのである。そしてヘラクレイトスは、「笑顔もみせず、飾りも香油もつけず」、むしろ「口角泡をとばして」それを告げるのではあるが、その言葉は何千年もの未来にまで伝わっていかねばならない。なぜなら、世界は永遠に真理を必要とし、したがってヘラクレイトスを必要とするからである。もっともヘラクレイトスはそれを必要としてない。彼にとって栄光などどうでもよいことなのだ。
 「つねに流れてやまぬ、死すべき人間たち」の許での栄光など! とヘラクレイトスは皮肉な口調で叫んだ。彼の栄光は、おそらく人間たちには意味があるだろうが、ヘラクレイトス自身には意味がない。人間たちの不死性はヘラクレイトスを必要とするが、ヘラクレイトス自身は、ヘラクレイトスという人間の不死性を必要とはしないのだ。彼が見たこと、つまり生成における法則と必然性における遊戯についての教義は、今から永遠にわたって見られつづけていかねばならない。ヘラクレイトスは、あらゆる見せ物のなかでもっとも壮大な見せ物に幕を開けたのだから。

   『無頭人[アセファル]』ジョルジュ・バタイユ他 兼子正勝、中沢信一、鈴木創士訳 現代思潮新社 pp. 63-68