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読書の感想など

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』

九月十一日

昼も夜も弁当。

ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考


ようやく読み終えた。一ヶ月くらい読むのにかかった。この本は難しい。というか、難しいのかどうかもわからない。というのは、書かれ方が明晰でないからだ。あるいは訳され方が、と言ったほうがいいのかもしれない。もちろん原著自体も翻訳もそれなりに良い仕事なのかもしれず、そのことはフランス語のわからない私には永遠に知りようがないのだが、しかし事実として普通の人が興味を抱いて読んでもまるで何の役にも立たないだろうし、何も読み取ることはできないだろう。この本の大きなバックグラウンドとなっているバタイユハイデガーやカントやヘーゲルなどなどについての予備知識があったとしても尚おそらくよくわからない本だろうと思う。

ごく一般的な評論系の文章は、たとえばある命題を述べたならば、その理由を説明したり、その具体例をいくつか挙げたり、想定される反論を挙げたりして論を展開していくものである。ところがこの本はそういう普通の評論系の文章が持つスタイルをほぼ放棄していて、なんというか哲学者の手記というか断想みたいなものに近い。ちゃんと推敲したのかどうか疑わしい。たとえば、括弧でくくられた補足が異常に多い。そのせいで死ぬほど読みにくく、イライラさせられる。詩でも書いているつもりなのか。そうなのであればちゃんと詩として発表して欲しいものだ。こういう本を読むと、いかにデカルトの文章がグッドなライティングだったのかが良くわかる。現代の哲学愛好家はさも当然のようにデカルトを馬鹿にし、一段下の哲学者のように、あるいは悪しき合理主義や個人主義や利己主義を生み出した邪悪な哲学者のように扱うが、完全に間違いである。デカルトはおそらくその思想内容と同等に文体にも気を使っていたに違いない。その証拠にデカルトの文章は数百年の時を経ても、全く文法の違う日本語に翻訳されても、尚明晰さを保っているからである。明晰さとは必ずしも論理的な正しさと同じではなく、つまりは著者の言っていることが伝わりやすい、効率の良い文章だということだ。

フランス現代思想の哲学者たちはハイデガーの著作に大きな影響を受けているという。ウラジミール・ジャンケレヴィッチは、ハイデガーの著作を引用するフランス人たちを批判し、「俺はドイツ語を忘れた!」と言って一切ドイツ語を使わなくなったらしいが、ジャンケレヴィッチがそういうことを言わねばならぬほどフランスの哲学者はハイデガーを好んで引用したということなのだろう。ハイデガーの著作は少しだけ読んだことがあるが、難解というよりも詩である。そういう詩みたいな文体に影響を受けて、フランス人たちも詩みたいに哲学をするようになったのかもしれない。しかしこういうことは日本人が真似をする必要はない。それは思想の伝達効率を著しく下げる。アドルノみたいに概念によっては決して捉えられぬ真理をこそ概念によって捉えようとする、という不可能性を織り込み済みでの試みというか、そういう気概があるのならまだしも、表層だけをなぞってフランス人風の文章を書く哲学者もどきは最悪に低俗だ。そういうのは哲学のふりをしたおしゃべりである。

パウル・ティリッヒの『諸学の体系』を読んだときも一ヶ月くらいかかったが、この本は難解であるにもかかわらず読み終えたときに大きな充足感があったものだ。素人の私が学問そのものというか、学の体系に触れたのだという確かな手ごたえがあったし、何より著者ティリッヒの精神というものに触れたような感覚があったのだが、『無為の共同体』においてはそういうことはなかった。おそらく学的な明晰さへの志向がまるで見られないからであろう。そういう本もあっても良いとは思うが、学問としてこういう効率の悪い方法はあまりよくないのではないかとは思う。共同研究の放棄のように見えるからだ。

まあ、本当は私の頭が悪いだけでみんなこの本の意味なんか簡単にわかるのだという可能性は確かにある。だが仮にそうではなかったとすると、私はこの本に大きな価値を認めることはできない。この本を読んでも読まなくても私の人生は全く変わらないであろう。それでも強いて読むならば、第一部だけ読めばよい。全部読むのは貴重な時間の無駄である。誰か親切な人の明晰な要約を待つのがよいだろう。