hkmaroのブログ

読書の感想など

九月一日

九月一日

夕方から新宿で友人たちに会う。大学のプログレッシブロックサークルの友人である。つまり音楽仲間とでも言うべき友人であり、そうであるがゆえにまず四人ぞろぞろとタワレコに入った。入ったら入ったで、おのおの勝手に見て回る。10階のクラシックコーナーでシェーンベルクのカルテットのCD買う。カルテットと言えば、私はkeller quartetというカルテットが好きだ。といってもCDは一枚しかもっていない。ドビュッシーラヴェル弦楽四重奏曲だが、このCDで初めて純粋に音楽というもので感動したかもしれない。感動というのは、映画的な感動ということで、ロックやポップスがもたらす快感とはまるで違う快感がクラシック音楽にはあるのだということをはじめて知った。特にドビュッシーの曲には深く感動した。ところが別のカルテットが同じ曲を演奏しているCDを聴くと、これはもうとてもひどい曲にしか聞こえなくて、まるで聞いていられない。という経験をして、クラシックのCDにおいては何よりもまず演奏者だとかコンダクターとかいう、プレイヤーの力量を重視せねばならないのだということを学んだ。作曲者について云々するのは、その曲が最高のプレイヤーの力で演奏されてからの問題である。演奏がクソなら曲もクソにしか聞こえないのだ。曲の良さは良いプレイヤーに恵まれてからでなければ決してわからない。クラシックだとか古典だとか言われる音楽(洋の東西を問わず)から人を疎遠にさせるのは、おそらくこの演奏者の問題が大きくて、誰が演奏しているCDを聞けばいいのか、あるいは誰のコンサートに行けばいいのか、普通の人には絶対にわからないのだ。好奇心をもって積極的にクラシックを聞いてみたはいいが、演奏者の力量が不十分で、結局クラシックに良い印象を持たずに終わるということは十分にありえる。何しろ私はkeller quartetによるドビュッシー弦楽四重奏曲を聴いて以来、数十枚のアルバムをとっかえひっかえ聞いてみたが、未だにこれに勝る演奏が収められたクラシックのCDを聞いたことがないからである。つまり、良い演奏者に恵まれたクラシック曲など、めったに存在しないのである。ハッキリ言って、数パーセントの確率でしか出会わないのだ。この数パーセントという確率は、クラシックに限らずロックだろうがポップスだろうが同じである。そしてもちろん演奏がクソであれば曲もクソに聞こえる、という事情も全く同じだ。ただ、クラシックでは普通の人にはそれが見えにくくなっている。なぜなら作曲家の名前があまりにも大きいからである。バッハの曲なら、モーツァルトの曲なら、ベートーベンの曲なら、とりあえず間違えずに演奏してあるのであれば、どのCDを聞いても良さはわかるだろう、何しろ天才が作った曲なんだから、と言う風に一般人は思いがちである。ところがここが一番の罠なのだ、おそらくは。

タワレコ出たあとは、雨が降り出したので急いでビアガーデンに入る。そこで、新宿ツタヤが安い日だという話になりツタヤに行くことになる。みんな音楽好きなので、一時間くらいツタヤを物色する。私は何も借りなかったが、一人は二十数枚も借りていた。

その後、残った一人と金の蔵で飲んで帰宅。眠い。