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hkmaroのブログ

読書の感想など

八月三十一日

八月三十一日

昼:カレー 夜:コンビニのハンバーグ弁当
ジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』意外に読んでいる。「共同体の絆は失われた」なる文言が主観的に言い表している「絆」なるものは共同体の根拠とはまるで関係が無い、という主張が刺激的である。共同体の根拠は死であり、また分有なのだそうだ。分有という概念が非常に面白く、これは実存とか個物とか主体とかいうインディヴィジュアルなアトムと、アトム相互間のコミュニケーションの両方を含む概念であり、主体だとかコミュニケーションとか言うものに優先してまず存在するのが分有である、ということらしい。分有とはもっと他の一般的な言葉で言い換えれば差異ということになるだろう。差異が個物を構成するのでありその逆ではない。言語論的転回の影響なのかはわからないが、個物に先んじて構造がある、というロジックと相似的である。が、それとも少し違うのは、コミュニケーションなる概念も仮のものであるとしているところだ。コミュニケーションなる、相互の個物の媒介項のようなものは本来認められない、というのである。なぜそういう言葉が出て来るのかと言うと、そもそもナンシーにとって共同体は不可能であるからだ。不可能な共同体を、そうと知りつつ作ろうとする活動自体が共同体であり、なぜ共同体が不可能なのかと言うと、その中に死があるからであり、死がある限り各々の「主体」は限界づけられる。なぜ限界づけられるのかといえば、死は誰にも経験できないからで、それゆえ「主体」相互の理解は必ずどこかで挫折するのである。それゆえ共同体も不可能なのだ。だから、コミュニケーションという語が想定しているような「通い合い」は、本来挫折を運命づけられているのであり、コミュニケーションが共同体の根拠ではないのである。むしろ「主体」は、通い合わないからこそ共同で存在するのだ。現今存在しているように見える共同体は、死によって共同体がいかに不可能であるかを確認し続けるからこそ、その不可能な超越的なものを確認して、それゆえ逆説的に共同体が存在する。というかそもそも「主体」は共同体なくして存在し得ない。「共同体の絆を取り戻そう」式の伝統捏造の保守主義だとか労働者を束ね「絆=連帯」を作ろうとする共産主義がいかに錯誤に満ちているか、ということに、この論理ではなろう。もちろんこれに似たようなことはナンシーも本書で言っている。実は、喪われたと思われている「絆」なるものが、もし本当になかったとしても、共同体はそういうものとはまるで関係が無く存在しているというのだ。それにもし本当に共同体が存在しなかったらなら、いまここにいる私たち自身が存在しないということに、ナンシーの論理ではなる。

確かに非常に面白いのだが、超読みにくい。フランス語だとこんなに読みにくくないのだろうか。哲学の本を日本語に翻訳するから読みにくいのだろうか。文体が読みにくいと言う感じはしないのだが、変な言い回しと言うか、言葉を変に弄くっていて、それがフランス語からの忠実な誠意ある翻訳なのだろうが、意味が曖昧になってとりづらく、とにかく読みにくい。こういうことがあると、翻訳で本を読んでいる自分の頭の悪さが憎たらしくなる。とはいえフランス語は勉強しようという気もちに全くならないから不思議だ。