hkmaroのブログ

読書の感想など

八月二十七日、八月二十八日

八月二十七日

昼:てんやの天丼。夜:ロッテリアのハンバーガー。

Fiioのヘッドホンアンプが届き、早速使って遊ぶ。ヘッドホンの音は体感で二倍くらいに跳ね上がり満足。低音出るモードに変えると、ヘッドホンがぶるんぶるん震えて気持ちいい。業田良家の『ゴーダ哲学堂』も同時に届いたので読んだ。最近の『機械仕掛けの愛』に比べてだいぶ素朴なヒューマニズムであり、業田が保守なのに納得がいった。あとがきに印象的な言葉あり。それは、

そして現在の日本。「善も悪もない、倫理も道徳も存在しない。正義はありえない」。化け物の言説がなんと多いことか。「人生に意味はない。まったり生きろ」「金で買えないものはない」「不倫には経済効果がある」ふざけるのもいい加減にしろ。

という言葉である。業田の思想信条とその素朴さがはっきりと見て取れる。好きな哲学者が池田晶子竹田青嗣というのもなにやら暖かい気持ちになる。しかし現在の業田のマンガは、この池田ー竹田的段階を超えているような感想を、『機械仕掛けの愛』では抱いた。

 

八月二十八日

昼:松屋。夜:コンビニのスパゲティー。

とにかく眠い。最近またガンスリンガーガールを集めて読み返しているが、これは本当に名作である。これは電撃大王に連載していたからか、マンガ文壇にはほとんど無視され、まるでキモくて臭いロリコン萌えオタが喜んで飛びつく低俗マンガかのように思われていたかもしれないが、これは本当に残念なことである。むしろ電撃から、ロリコン萌えマンガ風の外見をまとってこういう中身は硬派そのもののマンガが生まれてきたことに価値がある。

これに少し似たところがある話なのだが、最近宮崎駿富野由悠季はどっちが偉いのだろうかという問題を考えていたのであるが、結局後者のほうが圧倒的に偉いという結論に達した。二人とも若者に向ける言葉は辛らつで、悪い言い方をすれば保守的なオヤジ以上の何者でもないのだが、しかしながら宮崎駿はそういう保守性を偉そうな口調で語っておきながらその内奥にある本質はロリコンだとか戦闘機とか毛沢東とかであり全く野蛮かつ低俗で自分自身の言葉に背いている上に、アニメなんかなくなればいいとか言いつつめっちゃくちゃアニメで儲けているわけでしかも世襲で息子にアニメ映画の監督をさせる状況に甘んじあまつさえ喧嘩した風の外観を装いながら息子の映画に脚本を提供したりしていて口で言っていることはほとんどパフォーマンスに過ぎず決して信用に値しないのだが、この点富野は同じ頑固オヤジでありながら実質が真反対で、どういうことかというとたとえばガンダムなんかは子供の好きそうなロボットとかヒーロー劇とかあるいはアニオタに受けそうな美少女とかを出しておきながら、しかしその内奥にある本質は政治劇であり現実の風刺であり青年の挫折であり大人の幼稚さであり、つまり人間の愚かさを描くということが一番根本的なところにある。いや、何かを描くというよりも、最終的には作者の怒りが爆発してキャラがみんな死ぬ。巨大ロボとかエンタメとか美少女とかの糖衣の下には高度な批判精神があり、かつさらにその下には得体の知れないキチガイ性が潜んでいて、観る者を楽しませるとか教育するとかいう次元を超越してしまっている。約50話からなるZガンダムをみていると、そこに富野本人の精神を知覚しているかのような気がしてくるものだ。こういうわけわからなさが富野の偉いところである。宮崎駿富野由悠季のどっちが歴史に名を残すだろうかと考えた場合、まあ両方残るんだろうけど教科書に載るのは明らかに宮崎駿のほうである。しかし、心あるアニメオタクは富野のアニメに一層影響を受けるに違いない。そこできっと何かに感染するに違いない。そういうトラウマを観る者の心に刻み込むある種の直接性を持つ作品こそがアニメオタクの精神史を作る。宮崎駿は非アニメオタクのためのアニメ史しか代表しないが、富野はアニメオタクのアニメ史を代表する。これはもうどっちが偉いかなどと敢えて問うまでもない問題である。無害な食べ物の中に麻薬を忍び込ませて儲けているのが宮崎駿だが、麻薬の中に毒を混ぜているのが富野である。毒を盛られたアニオタは発狂するが、彼は喜んで発狂する。どっちがいいのかはもちろん観る人によるのだろうが、私としては圧倒的に富野を支持したい気持ちが大きいのである。あと、私はアニメにタレントをキャスティングする監督を決して腹の底から信用することができない。(その意味では新約Zはあまり良い映画ではなかった)