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hkmaroのブログ

読書の感想など

八月二十六日

八月二十六日

昼:コンビニのおにぎりとサラダスパゲティ。夜:松屋。キムカル丼。超不味し。

私はもうすぐ二十九歳になるのだが、二十九歳ってのは普通もうそれから先の人生でずっとやり続けるべき職とそのために必要な技術を身につけている年齢であり、私のように社会の何の役にも立たない低賃金労働を続けて、得た僅かな金をほとんど趣味の本に費やしてしまうような人間は、ふらふらしている人、だといっても良いだろう。人が単に生きるのではなくflourishするためには、なにか脱自的な対象がなければならない。脱自的な対象とはつまりだとか国家だとか芸術だとか言うものであり、それが必要だということはもうこの四五年の間ずっと考えていることで、探し続けてもいるのだが、一向に見つかる気配がない。それがなければ人間はflourishできない。つまり、主体的に生きられない。いや、主体的に、というのも少しおかしくて、それは脱自的な生き方なのだから主体などどうでもよいわけだ。主体などどうでもよくなるくらいに脱自的に、恍惚とわれとわが身を奉げられる対象を得たときにこそ、人間はひとつの精神となる。自分の精神に優越する何かを見つけたときにこそ人間は精神になるのだ。これは逆説である。逆説ではあるが、否定しきれないものがある。人間はそれ自体では精神でありえない。精神でないということは人間でないということである。精神を持たない人間とはヒトであり、動物である。ヒトなる動物が精神を持ち人間となり世界の中心にその座席を与えられるためには、世界の外にある何かが世界を定位しなければならない。その何かこそがであり国家であり芸術でありその他諸々のものなのだが、これを儒教的に「天」の原理だと日本では表現することがあり、その対義語を「地」「大地母神」の原理だと言うこともある。しかし、「天」を「父」などと言い換えてしまうと思考が大きく杜撰になっていく。「天」とは厳密には父とか母とかいう人間の論理を超越していなければならないはずだし、女には女の「天」はあり得る。しかし同時に「天」とは、ただの他者、つまり、よくわからないというだけの未規定性ではない。なぜなら「天」に従ったときにこそ人間の精神が生まれるからである。現実には「天」なるものを実証的に割り出せるわけではないのだから、「天」とは人間が仮構しただけのバーチャルな領域でしかない。はずなのだが、時に「天」は人間の肉体をどうしようもなく規定する一種の法則としても現れ、そうであるがゆえに人間は「天」を重んじることができる。どうしようもなくアイドルが好きなオタクが、ファン活動をもはや自分の意志だけでは辞められないのと同じである。だが肝心なのはそのファン活動が世界を定位するかどうかということだ。私にとってそうした世界を定位するファン活動こそが問題なのである。私は何のファンなのか。そして私がファン活動の対象とする何かは世界を定位するのかどうか。私は精神たりえるのかどうか。