hkmaroのブログ

読書の感想など

八月二十四日『ナビィの恋』、八月二十五日『ダークナイトライジング』

八月二十四日

 

ナビィの恋 [DVD]

ナビィの恋 [DVD]

何をしたか覚えていない。多分夜に独りでアパートで酒を飲んで……たしかツタヤで借りた『ナビィの恋』を観た。これは非常に面白かった。笑いが中心にあり、老人や小学生ですら下ネタを言い、音楽があり、踊りがあり、風があり、海があり、星空があり、人間関係のアポリアというかコンフリクトがそれらに包み込まれていて、解決するわけでも解消するわけでもないのになんとなく穏やかな雰囲気で映画が終わった。すごい。こういうのが南国というかアジアの楽観主義の良さなんではないかと思う。まあそれも皮相的な早とちりかもしれないが、まず目に見える雰囲気の良さとしてはそういうのがアジア的なものの良さではないだろうか。劇中の住宅では、昼も夜も窓を開けっ放しであり、家の内と外の区切り方とか考え方が西洋式の住居とはまるで違うということがわかる。島にやってくる人に注目して考察するとこの映画はより味わいが出るように思う。まず島出身の奈々子は、劇中で口ずさんでいる歌の歌詞から察するに、東京で失恋して傷心のあまり仕事も辞して実家(おじいとおばあしかおらず、父母はまた別の家に住んでいると思われるので生家かどうかはよくわからない)に帰ってくる。福之助は独りであてもなく放浪している人間であり、その表情から察するに楽しむ為に漫遊しているわけではなさそうである。言葉は標準語であるから、やはり東京か少なくともその近郊で暮らしていたものと推察できる。もう一人はサンラーで、この人物がナビィの恋の相手なのだが、これは過去に島の占いに基づいて追放された人物であり、60年もの間ブラジルで暮らしていた。

福之助とサンラーは、その設定上根無し草だと言ってよいだろうと思う。福之助は何故かは知らないが根無し草的放浪をしていて、サンラーは追放によって根を絶たれている。奈々子は逆に根を持っていてそこに帰ってくるわけであるが、しかし島の因習には反発する。大雑把に言えば島と外部の中間くらいに位置する人物だ。奈々子は、その父親が実家の外で暮らしていながら島の因習には忠実に従うのと対照的である。つまり三人とも島にやってきていながら、反島的な性質を持っている。いくら粟国島が開放的な雰囲気を持っていると言っても、実際には占いみたいなものに一家全員が集合して耳を傾けて、誰を追放しろとか誰と結婚しろとかいう決定がその場でなされてしまうという「旧弊」もしっかりと残っていて、奈々子にとってみればそんな風習は全然開放的でもなんでもない。むしろ閉鎖的である。島の人が福之助のことを「あのヤマトンチュ」と呼ぶ場面があって、この言葉がどのくらい沖縄で一般的なのかはわからないが、この言い方にも島と外部を分ける島民の意識がさりげなく表現されていると思う。

ナビィの夫である恵逹が、ナビィの恋を暗黙に認めて出奔を止めないのには、恵逹自身がはじめから外部的な性質を持っているからだということもできるんではないかなどと思う。彼は毎日仕事に出かけるときは三線でアメリカの国家を演奏しながら行くし、会話の中に英語が混ざるし、どこの馬の骨ともわからない福之助を突然居候させたりする。映画全体を通して描かれるのはナビィの葛藤というよりも、むしろ恵逹の葛藤であり、その葛藤が彼自身の直接的な言葉によっては一度も表現されないからこそ奇妙な重たさが映画を観る者の胸にわだかまるのではないだろうか。しかしそのわだかまりも、解決も解消もされないままだが、福之助と奈々子が結局家に住み着いて子供を沢山生んで近所の人がみんな集まって歌ったり踊ったりという時の流れとともに遠景に遠のいていくだろうという予感を感じさせつつ映画が終わる。

総じてこの映画は、時には島の共同体とか共同性を壊しかねない外部的な「自由」を肯定しつつも、同時に島の共同体が乗っかっているところの自然をも肯定するという方法によって、上辺だけでない真の開放性を賛美していて、その為には五十年連れ添った妻が突然昔の男にくっついて出て行ってしまうという、ある意味最も過酷な種類の交換条件をも受け入れねばならないことを提示していて、全くこの物語の現実認識のウソのなさみたいなものが、泣けるし、賛同できるものであった。恐らく西洋的な悲劇的方法でこの物語が作られていたら、最後には登場人物みんなが自殺せねばならないところだ。あるいは奈々子がナビィとサンラーをエレクトラ的に罰しなければならないところだ。そんな破滅は、言うまでもない事だが、この映画とは無縁である。

 

八月二十五日

 

昼過ぎに秋津へ行き、古本らんだむに本を売りに行く。つまらなかったマンガや、一度読んだがもう二度と読むことのないであろう本を十冊くらい。新しい本が多かったからか、二千何百円かになる。今までの経験では、六、七十冊の本を紙袋に入れて両手に下げて苦労してまんだらけに売りに行っても、マンガ一冊50円、ラノベ一冊10円、エロマンガ一冊300円とかで結局五千円くらいにしかならずがっかりしたものであった。エロマンガがそんなに値段つけてでも買い取りたいもんであることとか、アニメ化前とか最中とかのラノベがいきなり200円買い取りになったりとか、色々学ぶべきことも多かったが、本は売っても金にならない、という先入観があった。今回も、悪くすると全部で500円くらいにしかならないのではないかと思っていたから得した気分である。買い取りの間棚を眺めていると、PSY・Sのチャカが書いたという英会話本が見つかり、もの珍しさについ購入した。百円だった。ソニーマガジンズがミュージシャンに本を書かせるというシリーズでいくつか出していたらしい本の一つである。

 

ダークナイトライジング』を新宿バルト9に観に行く。一緒に観に行った他の面々からの評価は良くなく、私もあまり良い映画だとは思わなかった。作中で一種のファシズム体制が成立するのだが、ファシズムファシズム自体の良い側面と悪い側面で描くのではなく、ファシズムの裏で陰謀が進行している、という設定にすることによって陳腐化させてしまっており、厳粛さというか真剣さに欠ける。ファシズムを「所詮ファシズム」という目でしか描いておらず、まるでフランス革命のような裁判のシーンも単に滑稽なだけであり、衆愚を描こうという意図しか感じられない。『魔法科高校の劣等生』ほどには安易ではなかったが、結局結論としては暴力的な管理機構の必要性を積極的に肯定するということにしかならず、現世の法を超越したアンティゴネー的な「神の法」の体現者であるはずのスーパーヒーローは現世の法を補強するだけの存在である。

 

映画みたあとに末広通りの居酒屋へ。バルト9行ったあとはここらへんの居酒屋で飲むのが定例となりつつある。飲み屋では、『ライジング』はまずエンタメとしてダメだ、という意見が大きかった。カネが映画の良さを決定するわけではないと実感した、などという話も出た。二件目の居酒屋のさくら水産ではM岡さんに『ワールドイズマイン』と『莫逆家族』を読めと言われる。

 

最近ますます批評という行為を面白いと感じるようになってきている。別に自分が批評をするのが楽しいというわけではなく、むしろ他人が作品を批評しているのを見ると妙に面白い。その批評が、批評する者の主体と、批評される作品と、主体と作品各々が前提としている意識的なイデオロギーや無意識的なイデオロギーとを、互いに絡み合った形や断絶された形で露呈させるからである。作中のAという要素をメタファーとして読み解くということは、Aという要素がどういう意味を与えられているか、ということを読み解くことと完全に分けられるわけではない。つまり、我々が常識的に「ドラゴンボールの孫悟空は無垢な者の強さを表現している」と言うことができることと、「孫悟空がスーパーサイヤ人になるのは日本人のアングロサクソンコンプレックスのメタフォリカルな表現である」と得意げに言うこととの間にはそんなに差がない。なぜなら作品を読む主体によっては、孫悟空は無垢には見えないかもしれないからだ。逆に、日本人でもアングロサクソンでもない人種(つまり当事者でない人種)の人々からすると、日本人に似た黒髪黒目のサイヤ人がいきなり金髪碧眼に変身して超強くなることに対して、「日本人のアングロサクソンコンプレックス」を読み取るということは全く無理のない「常識的な」考察なのかも知れないのである。メタフォリカルな読みと、「ありのまま」で「常識的」な読みとを厳密に区別することはできない。そうでありながら通常我々は常識的な読みとメタファー解読による読みとを区別して考えている。実際には常識的な読みとは、読む主体が常識だと思っているある範囲の(例えば日本人としての)共同性から判断しているだけであり、メタファー解読による読みとは、より主体の臆見に多く依存して判断しているだけである。表現方法には明示的か暗示的かという二種類はあるかと思うが、明示的だから常識的に解釈ができるとは限らないし、暗示的だからメタフォリカルな表現だとも限らない。作中のセリフとして作品が明示的に何かを語っていても、それをそのまま受け取っていいとは限らないし、それは何かの隠喩かもしれない。また、具体的な言葉なしに象徴的な物によって何かが表現されていても、それは別に隠喩などではなくて常識的に解釈できる表現かもしれない(例えば登場人物が恋人に対して花を贈る行為などは、セリフ無しでも愛情の表現なのだと常識的に判断できる)。そしてもっと重要なのは、作品と主体の相互作用は、何らかのイデオロギーの変容を起すということである。主体が作品を受容することによって、作品は主体のイデオロギーに影響を及ぼす。また、作家が作品を作ることによって、作品は必然的に作家のイデオロギーを刻印させられずにはいない。いくら作家が自分のイデオロギーを排して中立的に作品を紡ごうと思っても、無意識裡に作家のイデオロギーは滲み出るし(特にジェンダー観や階級意識)、何より「中立的であろう」という意識そのものがイデオロギーである。人が何か作品を評価するときは、作品に刻印されたイデオロギーが、読む者のイデオロギーと合致するかどうかという尺度が、恐らく作品の丁寧さよりも重要である。