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hkmaroのブログ

読書の感想など

八月十一日

八月十一日

昼:コンビニのおにぎりとパン。夜:すた丼やのミニすたカレー。

こないだ新宿東口ブックオフで見つけたMOON CHILDの『POP AND DECADENCE』を聞いている。少年時代の思い出が脳裏に迸る。でも普通に今聞いても名盤だ。私がこのアルバムを名盤だと思うのは、結局私の音楽的判断基準がこのアルバムによって作られたからだ、という言い方もできるのだが、歌詞の語彙もオトナになってから聞くとあきらかにマーケティング的には間違ってる感じだし、音楽性もまったく中高生にアピールしない感じなのだが、それでも敢えてエイベックスという大資本のカネをくすねてアルバムを発表せしめた佐々木収をはじめとするMOON CHILDはすごいバンドだったといってよいのではないかと思う。こんなCDをエイベックスが、しかも当時のエイベックスが出してたのかと思うと、このバンドの偉大さがわかる。佐々木収氏は最近は私もよくライブをやっていた吉祥寺のプラネットKというライブハウスに出演することがあるらしい。まさか佐々木収が立ったのと同じステージに自分が立つとは、少年時代の自分は思ってもいなかっただろう。もう、自分の人生の良いことってのはこの事実のみに集約されているのではとすら思う。佐々木収は私のヒーローだったのだ。もしも音楽にも座右の銘のような一曲がありえるとするなら、私にとってそれはMOON CHILDの「ひぐらしと少年」である。十年以上ずっとギターのネックを握ると自然とこの曲を弾き出してしまう癖が抜けない。もう刷り込みに近いものがあるのだが、しかしこの「ひぐらしと少年」は、閉鎖的な田舎に生まれながらにしてメディア人間として育って鬱屈に鬱屈を重ねてきた人間のもっとも詩的な部分を表現した曲だと思う(反対にそういう人間の憎悪を掬いとったのは、言うまでもなく大槻ケンヂであり筋肉少女帯なのだが)。具体的なことは何も歌っていないからこそ、具体的なことが何もなかった私の少年時代を極めて正確に縁取る曲だ。ずっともう少年時代の延長で生きている。曲中に自然の表象が挟まれるのも良い。前にも書いたことだが、自然とは田舎に生まれた人間にとっては必ずしも愛でる対象とはならず、むしろ反対に人間を外界と隔絶する壁である。この壁は乗り越えられなければならないのだ。それゆえ、自然と少年を歌った「ひぐらしと少年」が表現するのは、詩的な挫折とでも言うべきものだ。アルバムの構成として、この曲の直後に都市における群集内の孤独を歌った「hallelujah in the snow」が入っているのも、メディア人間・サブカル人間が、結局は都市へと出て行かなければ話にならない運命とそこにおいても再び挫折させられる過酷な未来を暗示したものとして非常に重要で意味深い。このような表現はたとえば都市で生まれ育った大槻ケンヂの詩世界などには出て来ないものだ。大槻ケンヂとはよくも悪くもサブカル界隈の中枢で言わば純粋培養された才能であり、これに対しては田舎者は単純に崇拝するしかなくなってしまう。詩の断片において大槻の言葉が田舎者だろうと都会者だろうと関係なくボンクラの魂を救ったとしても、なおそこにはボンクラ的段階からサブカル界隈へと深く食い込むことのできる都会者と、山奥で人知れずボンクラのまま一生を終えるかもしれない田舎者との間に絶望的な断絶があることは確かなことだ。そして、東京という都市が畢竟田舎者の集団により構成されているものに過ぎないとするならば、より本質的に都市的なのは大槻ケンヂではなくて佐々木収なのである(タレントとしての成功度合いとかを度外視するならば)。またそこには、屈託なくサブカルに走れるがゆえに過剰さと濃密さをもった良くも悪くもオタク的なオーケンの詩世界と、田舎者であるがゆえに都市的なソフィスティケート化を通過せねばならなかった佐々木収の詩世界との違いが現れる気がする。オトナになった今比較してみると、悪い意味で「サブカル」で「渋谷系」なのは、どう見ても佐々木収のほうなのである。まあ、大槻ケンヂと佐々木収を代表的に対比させてしまうのはあきらかに私の恣意的な手続きというほかないのだが、この二人によって大きく価値観を変容せしめられた私としては、どうしても通過できぬ問題なのだ。