hkmaroのブログ

読書の感想など

■私の生まれ育った熊本県では、熊本県で最も栄えている、熊本市の中心的繁華街のことを単に街と呼んでいた。しかし、今から考えるとこれは話し言葉でしか使われない単語で、敢えて表記するとしたら「マチ」とでもしたほうがいいようなものなのかも知れぬ。大学生になって東京に出てくると、「マチ」なんて言葉を使っている人に出会うことはほぼなくなった。似たような意味の街の用例として、「街に繰り出す」という言い方が一般的に日本語にあると思うが、これは一般化しているがゆえに特定の場所を表現しているものではない。首都圏の人が「街に繰り出そう」と言ったら、その街とは新宿でも渋谷でも池袋でも六本木でも赤坂でも銀座でも良い。だが熊本県民が「マチ」と言うとき、明らかにある一つの特定の限られた場所をしか意味しない。それはすなわち、市電の通町筋駅を中心に市電の線路と垂直に交わるアーケード街の周辺である。このようなアーケード街は、私の乏しい旅行経験に照らしてみると、多くの地方都市に存在している。東京、大阪、名古屋、などの大きな都市は別だが、それ以外の県における中心的繁華街はなぜかアーケードを備えていることが多い。果たして熊本県以外の各県民も、自分の県の最も栄えている中心的繁華街のことを「マチ」と呼ぶのだろうか。

■飛鳥井千砂の『タイニー・タイニー・ハッピー』を読んだが、この本は郊外型ショッピングセンターを舞台としている。郊外とはいえ、郊外にも大きく分けて二種類あると私は考えていて、それは東京大阪名古屋などの大都市に対する郊外なのか、それともそうでない郊外なのか、で分けることができるだろうと思う。特に前者に関しては東京都心への距離によって郊外の持つ価値がだいぶ変わってくるように思う。東京都心を前提とした場合の郊外は、東京都心が労働の場所であるのに対し、誤解を恐れず言えば生活の場であって言わば「女子供」中心の場所だ。ベッドタウンはベッドタウンと言うだけあって基本的に寝に帰る場所である。少なくともベッドタウンに住む大半の労働者にとってはそうだ。それに対してそうではない郊外については、郊外が都市をしのいで栄えつつある。熊本に住んでいる友人の話を聞くと、上記に述べた「マチ」からは人の姿が少なくなり、商店はどんどん閉店しているのだという。かわりに若者から家族連れまで、娯楽的消費も日用品の購入も全てまかなえる郊外型のショッピングセンターに人が集中し、その周辺が栄え始めている。中心と周縁という関係性が逆転しつつあるということだ。当然こちらの意味での郊外およびショッピングセンターのほうが、よりラディカルに郊外の郊外性の表れとして存在している。

『タニハピ』は前者、すなわち都心へも電車で四十分くらいでいける程度の、いわゆる東京近郊とか首都圏と呼ばれる範囲内にある郊外が舞台だ。私は恋愛小説にうといのでよく知らないが、この小説を読む限り人物たちの感情を描写してそれへの共感で読者からの人気を得るタイプの普通の大衆心理代弁小説だと思ったのだが、しかしこういう内容の本だったら本来郊外を全面的な舞台にしなくてもよいはずだ。しかもショッピングセンターが人物たちの主な労働の場所として設定されている点も、実は同じようなベッドタウンに住む読者のほとんどが勤め先としては東京都心へ毎日通っているという点を考えると、読者たちを代表する類的存在としての登場人物を描くという目的をこの部分では果たせていないように一見思える。このズレに、この小説における郊外型ショッピングセンター表象の特殊な意味づけが現われてくる。それは分かりやすく言うと、学園ラブコメにおける学園みたいなものだ。特に労働時間のスキップされ具合が学園ラブコメにおける授業時間のスキップとほとんど同じである。朝の出勤時、昼休み、仕事終わりなどの時間は、全て学園ラブコメの登校時、昼休み、放課後の時間に対応する。労働の時間でなく、主に労働していない時間に登場人物たちは会話をし、仲を深めていく。学園ラブコメにおける学園がどういったものだったかを思い出してみるに、そこは学園とは名ばかりで勉強などだれもしておらず(作中ではしていることになっているがほとんどそんな描写は存在しない)、ただ男女でいちゃついたり七不思議を探したり季節のイベントでうれしはずかしだったりするだけの、単なる人間関係の「ハッテン場」だったわけだ。そういった意味ではこの『タニハピ』は、誰も労働などしていないあらゆる意味で架空のショッピングセンターであり、まともな郊外についての考察の対象として取り上げることはまず無意味であった。しかし人間関係の「ハッテン場」が必要とされていて、郊外型ショッピングセンターがそれとして選ばれたという事情は注目すべきなのかもしれない。学園もショッピングセンターも、「女子供」中心の、つまり広い意味での再生産の場所だという点では同じである。この小説の登場人物たちも、結婚をしたり、子供を作ったりする。

さてそのポストラブコメ(年齢的な意味で)的空間で、じゃあ何が描かれたのだろうか。それは、女性というジェンダーのトポロジーと男性的なものへの跪拝である。まず女性についてだが、この小説に登場する女性たちはみな女であることへの自虐意識をなんらかの形で持っている。彼氏がいるのに他の男とやっちゃって、それに対して自己嫌悪をする女とか、あまり彼氏に好かれていないと知りつつ別れられない女とか、簡単にいえばだめんずうぉーかーな女が多く登場すると同時に、そのような自己嫌悪と平行して女性的なもの一般への嫌悪感も表明される。特に人間関係の「世間的」「政治的」「女子的」やりとりに対してはそうである。物事をはっきり言う「女女してない女」という人物も出てくるが、彼女が、いわゆる女子会のことをくだらないなどとというそのものズバリな話もある。が、女子的なものを極めすぎてハブられる女も登場する。気に入った男を弄ばずにはいられないサークルクラッシャー的な女だ。しかし、そこまで突き抜けた女はむしろ同情的な視点で描かれる。サークルクラッシャー自身の言葉として、「自分にはサークルクラッシャーの才能しかないんでそれを利用して生きるしかないんだ」というような発言もある。まとめると、つまり、

1.非女的な女(アンチ女子会女)
2.自分の女的な部分を嫌悪しつつも、世間一般の女よりも女女していない女(主要な女性登場人物)
3.世間一般と同じ水準の女(ほとんどモブキャラとして登場する) 
4.女をやりすぎて女の範囲を超え出てしまった女(サークルクラッシャー

という四つの女類型が描かれている。そして女性登場人物たちは、世間的な女たちよりは自分は女の嫌な部分を持っていないことを、モブキャラの醜悪な女ぶりをみることによって確認しつつ、とはいえ自分も女的な部分を持っていることを<安全に痛い>反省(宇野常寛が言う文脈とはだいぶ違ってしまうが)をすることにより正当化して、もって安心して恋愛にハマる、という構造がある。

ではこれに対する男性の表象はどうであろうか。女性作家の男性描写は、必然的に作者の幻想的な男性観を投影せざるを得ないがゆえに、そうした男性を求める、あるいは認識している作者自身のヘテロセクシャルな女性性を最も如実に表現する部分、つまり作者の最も恥ずかしい部分を必然的に含まざるを得ないと私は考えるが、もちろんこのことは、男性作家が自己の男性性の空虚さを幻想で埋め合わせているがゆえに、等身大の(つもりの)男性描写において男性作家自身の最も恥ずかしい部分が必然的に露呈されてしまう事情と多少は似通っている。この小説に登場する男性たちは、常に誰か女性に好かれている。もてない男、というものが基本的には登場しない。つまり、恋愛市場において求められている男、希少価値の高い男しか登場しない。唯一の例外は<女女した女が嫌いな男>である川野という人物だが、この人物は女性たちの自己嫌悪あるいは女性嫌悪を、男性という肉体に仮託された女性嫌悪正当化装置である。つまり、男性である川野が「女女した女は嫌いだ」と言うことによって、<女女している>世間一般の複雑で酷薄な女性社会に対する嫌悪感を持つようなタイプの読者の気持ちを正当化してくれる。が、このような装置である川野が作中で結局特定の女とデキなかったことは作者の公正なバランス感覚の証であるようにも思える。川野以外の基本的にはもてる男は、女性たちとどういった関係を作るのかと言うと、既にのべたようにだめんず的関係である。だめんずとは言い条、女性たちがだめんずうぉーかーであるが故にだめんずとしての役割を求められていると言ったほうが正確だ。この小説を読んでいると不思議なのは、なぜそこまで女性たちが恋愛を求めているのか、ということだ。彼女たちはほとんど恋愛依存症であり、わざわざ会社の休み時間にケータイの電波が良く入る場所まで移動してメールのセンター問い合わせをしたりする。読んでいて可哀想になるくらいなのだが、しかし同時に、そこまでするのはもうビョーキなのではないかとも思う。当然センター問い合わせをしても彼氏からのメールは来ない。メールが来ないもの同士で奇妙に連帯したりもする。

女性たちの恋愛禁断症状を緩和するのは、食事とセックスである。なんかこういう関係はダメなのではないか? と思いながらもとりあえず手の込んだメシを食ってセックスして髪をなでられればなんとなく気持ちは落ち着く。そしてまただめんずうぉーかー的な日常が続く。食事・セックスという身体を媒介とした行為が唯物的に精神に作用するという手法は、それはそれで良いと思うのだが、しかしそれが薬物的な恋愛の習慣性を維持強化しているとなると恐怖すら感じる。身体的な行為の暗部が露呈しているように思う。まるでこの世には恋愛以外の人間関係がほとんど存在しないかのようだ。そして根本的な治癒は到来しない。それが到来したらおそらく恋愛が終わってしまうのだろう。常に少しずつ恋愛の成分を与えられて、決して満足しないように飢餓状態を維持していなければ、恋愛というゲームへの熱狂が続かないのであろう。そしてその熱狂状態は、社会全体が個人に対してそのような消費を迫る時代に生まれて育った者たちの宿命でもあるだろう。恋愛に興味のない人間がこの小説を読んだらまず「くだらない」という感想しか出ないだろうが、しかし恋愛に興味のない人間が既に少数派である時代においてはこの酸鼻きわまる恋愛描写は、そのいかにもな大衆小説的筆致と相俟って、一つの厳粛なリアリズムを形成していると言える。この小説はプロレタリア文学やディストピア小説の亜流としてこそ読まれるべきだ。

上記を踏まえれば、『タニハピ』推薦フリーペーパーの、

普段の生活が書かれているのだ。普通に生きてる人の、何の変哲もない、ありふれた恋愛と日常が。それは読んでいる私たちと同じ”普通”で、その中で彼らが私たちと同じようなことを感じながら、少しだけ成長して、少しだけ前に進むから、読んでいて、こんなに共感できて、こんなに心に優しく染み渡るのだろう。

という文言は、無自覚的にこの恋愛への飢餓状態に対する共感を表現していると私には思われる。飢餓状態とは言うものの、飢えているからこそ、ほんの「小さな小さな幸せ」でもトリップできるのである。「男女のビミョーな感覚のズレ」の描写は全くリアルではなく、男脳だとか女脳だとかそういう俗説の範囲を決して出ておらず無価値だと思うが、しかし男からちびちび与えられる「メール」だとか「デート」だとか「食事」だとか「セックス」だとかいうたわいないものに一喜一憂する女性たちの姿は大変な憐れみを誘う。こういう<馬鹿な女><待つ女>的な演歌の世界を、巧妙な自己正当化や現代的な風俗とともに描いたところが重要だろう。