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hkmaroのブログ

読書の感想など

ドイツイデオロギー抜書き

重要だと思うところを太字強調した。

諸前提とは、人間たちである。それは何かしら空想的に完結していたり固定化されていたりする人間たちではなく、自分たちの現実の、経験的に直観できる、一定の諸条件の下での発達過程の内にある、人間たちである。この活動的な生活過程が叙述される時、たちところに、歴史は、ご当人は依然として抽象的な経験論者たちにあっては死んだ事実の蒐集であり、あるいはまた、観念論者たちにあっては仮構の主体の仮構の営為であり、といったあり方をやめる。

分業と私的所有とは同じことの表現である――後者において活動の生産物との関係で言い表されているものが、前者においては活動との関連で言い表されているのである。

人間が環境を作るのと同様、環境が人間を作るのである。各個人ならびに各世代が所与のものとして眼前に見出す、生産諸力・諸資本・社会的交通諸形態の総体、これこそが、「実体」とか「人間の本質」とかとして哲学者たちが表象したものの、また彼らが神格化したり挑戦したりしてきたものの、実在的な地盤である。

歴史的経過を把握する場合に、支配階級の思想を支配階級から切り離して自立化させ、ある時代にはしかじかの思想が支配したということで済ませて、思想を生産する諸条件や生産者たちに思いを致さないなら、つまり思想の基礎にある諸個人や世俗世界の状態を度外視してしまえば、例えば、貴族支配の時代には名誉や忠誠などの概念が支配した、ブルジョアジーの支配期には自由や平等などの概念が支配した、などと言えることになる。支配階級自身が、概してそう思い込んでいる。

「自己自身を規定する概念」の神秘的な外観を取り払うために、それは一人の人物――「自己意識」――に、あるいはうまく唯物論的に見えるように一群の人物に、つまり歴史において「概念」の代役を担う「思考者」「哲学者」、イデオローグといった人物たちに変換される。すると今度はこれらの人物が、歴史の製造者、「監視委員」、支配者として捉えられる。こうなれば、歴史から唯物論的な要素がすべて取り去られてしまい、今や安んじて思弁の馬を走るにまかせることができる。

手工業では、どこでも、職人や徒弟は親方の利益に最もよく適うように組織化されていた。彼らが置かれた親方に対する家父長制的な関係は、親方たちに二重の威力を与えた。一つには、職人の全生活に及ぶ親方の直接的な影響力である。二つには――同じ親方の所で働く職人たちにとっては、この家父長制的な関係が現実的な紐帯だったので――これが、かれらを他の親方の下の職人たちに対して結束させるとともに、彼らと他の職人たちとを分断する威力となった。そして、最後に、職人たちは自分が親方に成るという彼ら自身の利害をもっており、この点からしてもすでに現存の秩序に結び付けられていた。それゆえ、下層民が都市秩序の総体にせめて暴動で反抗するくらいはした――彼らの無力さのため何の効果もなかったとはいえ――のにひきかえ、職人たちは、個々のツンフトの内部で、ツンフト制度そのものの存続には付きものの小さな抵抗をするのが関の山であった。

自分たちばかりか社会の全成員の生存諸条件を自己の制御化に置くに至った革命的プロレタリアたちの共同社会の場合は、まさに正反対であって、諸個人は諸個人としてそこに参加する。これこそがまさに諸個人の結合(もちろん、現在までに発展してきた生産諸力を前提とする範囲内での)に他ならない。

私的所有が共同体から解き放たれたことで、国家は、市民社会と並ぶ、そしてその外部にある、特別な一存在となった。とはいえ、それは、ブルジョアたちが対外的にも対内的にも自身の所有と利害を相互に保証するために自分たちに与える必要のある、組織の形式以上の何ものでもない。国家の自立性が今日でもなお見られるのは、身分がまだ完全には階級にまで発展していない国々、もっと進んだ国々では片付けられてしまっている身分がまだある役割を演じていて混合状態が現存しており、したがって住民のどの部分も他の諸部分を制して支配するということがまだできずにいるような、そういう国々ぐらいである。これは、とりわけドイツに当てはまる。近代国家の最も完成された例は北アメリカである。近年のフランス、イギリス、アメリカの著述家たちはみな、国家は私的所有のためにだけ存在するものだという意見を揃って口にしているので、これはもう通常の意識の中に行き渡っている。