hkmaroのブログ

読書の感想など

『デート・ア・ライブ3』橘公司

このシリーズを読むとき、私は精霊を自然、もっといえば自然の神話的表現と読み換えるし(より厳密には、それらはあらゆる萌えのオブラートに包まれている。そしてこのオブラートはそれ自体むしろ自然の神話的表現そのものにおける本質的な重要さを持っているがここでは触れない)、対精霊用の装備は、自然から資材を得ながら反自然的で自立的な力を得てきた人類の文明や技術を表現していると読み換えるが、それが一体正当なことなのかどうかについて疑問が湧いてきた。正当、とは一体なんであろうか。正当な解釈、正当な批評というものが果たして存在するのかどうかは別として、形式的には我々は何か作品についての感想を述べる場合にはそれがあるものとして振る舞わなければ何も語れないのだが、では私をはじめとするオナニーレビュアーやその他職業レビュアー、書評家、批評家は、何を正当な解釈だと考えるのだろうか。言い換えれば、そこでどういった解釈が「正当」だとして流通しているのだろうか。もちろん大ざっぱには検討がつく。それは二種類あって、簡単に言えば作家の地位をどう考えるのかによって綺麗に分かつことができるようなものだ。しかし、一方が例えば作家の死を唱えた場合に前提とされるのは、「作家の生」とでも言うべきものが「正当だ」と無前提に考えられているような状態である。そうなると、私のこのラノベに対する解釈は「作家の死」へと近づいてゆく。「作家の死」が究極的に行き着くのは牽強付会である。これに陥らないためには、以前にも日記に書いたが、歴史の知恵か科学の知恵が絶対に必要だ。
狂三(くるみ)という新しい精霊が登場するが、彼女は人間にとって害のみをなすように思われるような自然を司っている女神的な存在と考えることが、つまり上記の私の読み方によればできるのだが、ごく単純にこの本を読んでいけば、狂三(くるみ)という人殺しばっかりしてきた「悪者」にもチャンスをあげる、ということがこの巻の眼目だということがはっきりとわかる。そしてここにこそこのラノベの最も重要な価値があると、あらゆる短絡的思考への陥没を恐れずに言うことは、実はラノベを読む人々にとってとてもポジティブな効果を生み出すのではないかと思う。マンガやアニメやラノベなどのオタク的物語媒体において何がいままで名作とされてきたのかは、ある程度以上の年齢のオタクにとっては、これは世代を問わず自明である。それは、善と悪が反転する作品である。くどくど言うのも野暮というものだが、例えば少年ジャンプ的なバトルマンガにおいては主人公の善性と敵の悪性との境界線が犯されざる前提としてあり、主人公の善は敵キャラを下して配下としていく帝国主義的過程において無限に確認されていく。これによって少年たちは学校の教師ですら文句をつけられぬ一種の倫理的教育を施されるとともに、バトルマンガの読み方をも覚えるのだが、その読み方がいわゆる「名作」において徹底的に相対化される。この反作用こそが名作の条件であって、リアルさや緻密さや構築美がそうなのでは決してない。なぜそれが名作なのかというと、そこに読者の内面の弁証法的な高次化を促す働きがあるからである。『デビルマン』を読んだ後ではジャンプのマンガが子供向けに見えてしまう。つまり、「あたらしい善」を読者にもたらしてくれるアニメやマンガこそが名作なのである。
だが本作の弱点はあたらしい善を模索するその運動が、果てしなく萌えに頼っている点だ。はたして狂三(くるみ)が美少女でなかったら、この小説は成り立つか。無論成り立たない。それが商業的な事情によるのだと説明されても、その事情をクリアして尚提示できる「あたらしい善」でなければ名作の条件を満たしはしない。ラノベというマーケットに依存して小説を書く限りにおいては。美少女が美少女のままで美少女を相対化し高次化できるようなライトノベルは書かれうるであろうか。革命力62。