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hkmaroのブログ

読書の感想など

『ワールズエンド・ガールフレンド』荒川工

調べてみるとこの作者はエロゲーライターでもあるらしく、形式的には星海社的なアレな商売と同じと言えなくもないのだが、ファウスト系と関係のあまりないところで出してるエロゲーライターのラノベは、星海社に比べ目に見える特別待遇的措置がなされていないのでよしとする。

著者の自己紹介がまず酷い。「世界中のひとりひとりが音に溺れ、絵に耽り、書に淫する余裕をもう少し持てたなら、ちょっぴりいい感じのなにかが起こると思います」なんのことだこれは。何だろうこの上から目線感。音に溺れず、絵に耽らず、書にも淫しない習慣を持つ人に比べてこのラノベ作家がどれだけ「ちょっぴりいい感じの」仕事をなしてきたというのか。そんなもんは幻想だ。もっと単純な意味で、音に溺れ、絵に耽り、書に淫することができるくらいの時間とお金の余裕が世界中の人間にもっと与えられたら、という話なのであれば完全に全面的に賛同するが、仮にそうなのであれば音・絵・書という文化的な対象のみを持ち出す必然性は存在しない。この文化中心主義は早急に破壊せねばならんものだ。人間にはワーカホリックになる権利も、セックス三昧の日々を送る権利も当然ある。ネトゲ廃人になる権利も、完全に無為に過ごす権利も当然ある。その全てが保障されてこそ、本当にいい感じのなにかが起こるのだ。だから人類がこれから本当に希求すべきなのは、人間の自由が最大限保障されるための条件がどこにあるのか、あるいはそれをどこに設定すればいいのか、という問題で、これは広い意味で制度の問題だ。我々が言いうるのはだから、「世界中のひとりひとりがもっとよい制度を持てたなら、ちょっぴりいい感じのなにかが起こると思います」ということだけだ。あるいは意味内容としてそれの言い換えであるような命題だけだ。文化オタクが思い上がって自己中心化するととんでもない蒙昧が生み出されるのである。

そんな「ちょっぴりいい感じ」に蒙昧な荒川工先生の本を、読者は読むことになる。しかし内容ははっきり言って読まなくてもわかるようなものだ。上述した文化中心主義が随所に顔を出す。広く音楽や映画に通じている作者の、読者へのオタク的な甘えがこれでもかと言わんばかりににじみ出ている。私はその昔プログレのコピーバンドなどをやっていた一人のプログレ好きとしては、イエスをあまり評価せずむしろ嫌いなくらいなのだが、こういう作者によってイエスが持ち出されるとプログレ全体が侮られてしまうのではないかと危惧されてしまう。本当にプログレオタクな奴は、こんな甘えを一切持たず淡々と自分のプログレレビューブログを更新していくだけだろう。イエスを聞いている主人公の、イエスなんて誰も知らないよね的な自虐と自慢は、同時に作者の尊大な居直りに他ならない。プログレなんてwikipediaがある今の時代、知っている奴は知っていて知らない奴は知らないというだけで、それ以上のことは全くありえないし、その他の文化に関しても同様だ。観劇するやつはするし、しない奴はしないだけだ。映画を観る奴は観るし、観ない奴は観ないだけだ。そこに何か豊かさだとか「ちょっぴりいい感じのなにか」が有るだとかっていうことは絶対にない。

そして一番の問題は、世界の果てなんてどこにも書かれてないということだ。物語の結末における主人公の判断が非常に重要なのだが、その主人公の判断というのも宇野常寛的な決断主義の問題を図式的に導入しただけであってなんら新しくない。WEGの名が泣くぜ。

それよりも田中ロミオの解説がこの本の中で最も良い。ラノベでは一般的に主人公たちをとりまく環境の難易度がイージーモードなのだという。これがノーマルモードになると主人公たちがつらい目にあったりして、「娯楽作品の中くらい楽しい気分にひたりたい」という読者の欲望を満たしにくくなる。この読者の欲望を田中は「イージー志向」と呼んでいる。これは『動ポモ』にあるようなヘーゲル的な環境否定があるか否かという分水嶺だとも言えるわけで、環境否定の存在しない小説の形式としてライトノベルを定義できる可能性が秘められているのではないだろうか。だが私は思うのだが、「何か一風違うラノベを書いている俺」を演出しているように見える「ちょっぴりいい感じ」に蒙昧で甘ったれた荒川先生の発想が「イージー志向」だとは何故言えないだろうか。ノーマルモードと言う名のイージーモードを、我々一般大衆消費者は告発していかねばならぬ。