hkmaroのブログ

読書の感想など

『完本 情況への発言』を読み終わった

この本はとにかくすごい本だった。単純に重量があるということもすごさに寄与していることはすでに述べたとおりであるが再び強調しておくことにこしたことはない。

それ以外に何がすごかったのかというと、この口汚さと、こういう口汚さがなぜ生まれてくるのかを知ることができるところだ。なぜ柄谷行人浅田彰デリダドゥルーズがゴミ扱いされているのに、フーコーは認めているのか。単に浮ついているように見えるから攻撃したのではない。なぜなら吉本は浮ついたものに対しては「超オッケー」な態度を常に示していたからだ。「知の三バカ」、ニューアカならぬ「ニュー・バカ」が何故吉本にとってダメだったのかというと、彼らが学者であるにもかかわらず学問的な仕事を何ら成さず、それでいて大学に飼われてヌクヌクと生活しておきながら、出版社と付き合って専門外の分野に軽々しく手を出して発言していたからであった。つまり「批評家」になってしまったからだった。批評家になるのがいけないのであれば吉本も批評家だからダメだということになるが、実際吉本は自分のこともやましい存在だと述べている。そう述べているからといって文筆業のやましさがなくなるわけではないが、論敵が死んだ後でさえも死人にすら容赦なく罵言を吐く八十過ぎの吉本の姿は、読者を決して裏切ることのない一貫性に支えられているように見える。また、他ならぬ日本で原発が爆発しちゃったあとでも自論を変えることはせずやっぱり「反原発は人類の文明史的な歩みを無視する蒙昧な態度である」と言い切っている。1989年に「ソ連原発事故のようなものは確率論的にはあと半世紀は起こらない」とまで言っているのに、つまり吉本の失点は明らかなのに、自論を変えないのは、読者に対する責任意識のようなプロ根性に支えられているからなのではないかと思える。それならスターリニストの非転向も一貫性という意味では同じなのではないか、という反論が予想されるが、実際には吉本は本当に一貫したマルクス主義者に対してはそこまでバカにしてはいない。吉本が言うスターリニストとは、今で言うショックドクトリンみたいな感じで部落問題やら原発問題やら環境問題やらの、「問題」を発見してはそこにとりついて、ドイツイデオロギー的な内容空疎な観念の言葉で「運動を組織化」しようとする左翼の残存勢力のことである。自分の立場を維持するために党派性にぶら下がり、何かに依存しなければ何も言うことのできない惰弱な精神性のことである。もちろん吉本は憲法九条護憲派でもあるからこれらのスターリニストを右翼として攻撃しているのではなくて、他ならぬ左翼として攻撃しているところがアツい。アツいというかかっこいい。ダサい左翼とかっこいい左翼があるとするならば、かっこいい左翼とは吉本的なところにしかないのではないか。つまり、党派性と観念論を否定するところにしかないのではないか。現在文庫本で出てる吉本の語り下ろし本はやっぱりくだらないと思うけれども、このくだらなさは「試行」からの連続性の先にあるものなのだと考えると、それはそれで価値があるというか、それなりの必然性のもとで語られているんだなと当然のことながら思い、少し認識を改めた。