hkmaroのブログ

読書の感想など

昨日は久々にブックオフに行ってマンガを買った。半年に一回くらい無性に百円のマンガを買いたくなる時期がある。『魔月館奇譚1,2』『ちょく! 1』『いわせてみてえもんだ』『緑の王1〜5』を買った。全部百円だった。

『緑の王』は結構面白い。SF的なアイデアが色々入っていて、SF好きは面白いだろうけど、そうでない人にとっては、変身ヒーローものかと思ったらそういうわけでもなく、巨大ロボットものかと思ったらそうでもなく、萌えとバトルの混じったさくらハーツものなのかと思ったらそういうわけでもないという、なんか中途半端なマンガであろう。革命力70。
『いわせてみてえもんだ』タイトルのダサさやギャグの素人臭さに反して話のテーマ自体はよい。架空の人物のファンが、その架空の人物に似ている主人公と付き合うことになるのだが、「彼女は俺ではなくキャラだけが好きなのでは……? 俺って一体」みたいな葛藤をする。そこはよくある話なのだけど、その架空のキャラがそもそも主人公をモデルにして作られたキャラだった、と判明する。読みようによってはこれは広く敷衍できるテーマである。仮構されたイメージとは、現にある存在から作りあげられたもので、そのイメージを実物たる自分に押し付けられることは、実は全く不当な要求ではないということになる。つまり自分に対するイメージやレッテルをどう引き受けるかということの社会性が描かれていて、そういう意味ではよくできたマンガだと思った。革命力68。
『ちょく』なんていうことのないギャグマンガ。おそらく最近はやりのダメ美少女×ぼっち主人公ものを意識していると思われる。革命力30。
『魔月館奇譚』まだ読んでいないが、さわりを読んだ感じだと高橋留美子的な何かを狙った変わったアパートに共同生活のマンガである。作者自身80年代ラブコメ風のノリが好きなのであろうとうかがわせるマンガ。

ところで読書メーターをやったりやらなかったりしているのだが、以下のコメントを頂戴した。

http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13363335

hkmaro
はっきりいって何ら独自性の無い、ごく普通につまらないラノベなのだが、こうしたラノベが安定的に量産されていくシステムが出来上がっているところに、現代ラノベ界の最大の特徴があるように思う。竹宮ゆゆこ谷川流の新刊がメインストリームに起伏を齎しているとすれば、これみたいな小説は「つなぎ」でしかない。それは逆に言えばオタク達が、ゴールデンタイムやハルヒの新刊を待つ間それらを読み返して熟読して血肉化するような読書よりも、ただ口をあけて餌を放り込まれるのを待つ間の気晴らしとしての読書を選んでいることを意味する。
この部室は帰宅しない部が占拠しました。 (MF文庫J)ナイス! ★​ - コメント(2) - 09/12

ルルシェ大好き(共感してくれたらうれしいです。)
考えすぎだよ。もっとオプティミスティックに考えようよ。 悲観的過ぎるのはよくないよ。 もっと楽しくいこう。いい部分もたくさんあると思うよ。 実際、おもしろいと思ったし、まあ、人それぞれだよね。
- 12/16 23:05

hkmaroなるほど、ラノベとは考えずにバカになって読むものだというわけですね。で、否定的な感想は差し控えて、長所を見ろと。 なんか、学級会の延長でラノベ読んでるみたいなことになりそうですね。他人の欠点じゃなくていいとこを探そう! みたいな。まあ。人それぞれだよね。
- 12/17 10:24

こういう16歳が育ってしまったことに対して、はじめて責任めいたものを感じた。クソなラノベが蔓延し、それを読んで「面白い」などと言ってしまう美の判断力を高校生たちが形成してしまったことの極めて直接的な原因は、私および我々の世代が、良いラノベを良いと言い、クソなラノベをクソだとはっきり言明する努力を怠ってきたからではないだろうか。特にクソをクソだということは多くの場合憚られていて、この規範は2ちゃんのスレですらも支配力を持つ。クソをクソだと言って許されるのはほとんどアンチスレの内部のみなのだが、アンチスレはそもそもアンチを倫理規範によって隔離するシステムであって、sage進行と相俟ってクソのクソ性が広く露見することを防ぐ効能を持っている。しかもアンチスレに参加するものは必然的に自己をアンチと規定することになってしまい、その意味で価値中立的な断罪というものがそもそも不可能になってしまっている。つまり、第三者的な客観性が存在しないのである。だからこそ、この16歳のように、「まあ、人それぞれだよね」というような言葉が軽く発せられる。もちろん中立だとか客観性というものが幻想であることは当然なのだが、それは本来あらゆる言説の正当性を無効化するために用いられるものではない。むしろ趣味判断とは無縁の次元で尚、何が良く何がクソなのかを議論するためにこそ必要なのだ。しかしその議論が成立するためには、趣味判断の次元と論理の次元の区別が論者に共有されていなければならない。この区別を共有するための努力が、良いラノベとクソなラノベを腑分けする活動およびそれに付随する甲論乙駁なのではないか。しかし我々の世代は、真面目にラノベを語ろうという意思に明らかに欠けていた。ラノベ共同体にあったのはほぼ完全に趣味判断のみだった。ラノベなんかは小説でもなければマンガでもない、というか小説以下でマンガ以下のゴミメディアであるという認識が大なり小なり読者の頭に埋め込まれていて、決して文化のメインストリームに出ることのない三流文化だという自虐的意識と自虐的陶酔とがない交ぜになって、この自虐がなおさらラノベの耽読へと読者を駆り立てていたように思う。まあ、そんなことを考えていたのは実は私だけなのかも知れないが、だがラノベを積極的に肯定していこうという精神高揚のアジテーションが講談社のミステリ界隈から起こり始めてある程度成功したかに見えたのは、それまでの自虐意識からの落差を利用したからだと思う。つまりアニメ新世紀宣言みたいなものだ。実際には最近解散が発表されたファウスト的なラノベは、実はラノベでもなんでもないミステリ崩れ純文学崩れのオシャレサブカル小説に過ぎず彼らのヒーローである西尾維新にタカる構造をしか持ち得なかったわけで、川上稔フルメタを完全に無視していた。つまり、ファウストも結局は趣味判断の一派閥に過ぎずラノベそのものを主題にして議論することは結果を見れば誰もできていなかったわけだ。もちろんそんなことしようとも思っていなかったであろうが。テレビゲームの歴史がいわゆる名作というものをかなりわかりやすい形で残しているのは、その反対概念としてクソゲーがあったからだ。むしろ名作以上に燦爛と輝くクソゲーがテレビゲーム史上には存在していて、何が名作で何が駄作であるかの判断基準が、明文化されてはいないもののゲーマーの間でかなりの部分共有されている。これはゲームソフト一本の価値や希少性が文庫本一冊のそれと比べて格段に高いという事情が関係しているであろうが、クソに対する容赦のなさは見習うべきだ。それは同じくクソを「面白い」と表現するにせよ「あえてクソを楽しむ」という文化の成熟と若年者への教育効果を同時に生むだろう。