hkmaroのブログ

読書の感想など

商業主義の何が問題なのか

メジャー志向というものが何なのか、何故商業主義はだめなのか、一般にはあまり理解されていないように思う。そうした蒙昧は取り除かれねばならない。あたうかぎり早急に排除されねばならないのだが、しかし私には力がない。この力の無さはまさしく私が大衆であり一本の「草」でしかないところに由来するのであるが、大衆として反商業主義を唱えてこそ筋が通るというものである。

商業主義とは何なのか。特に文化産業における商業主義とは、大資本の力を使って作品を華美に飾り立て「クオリティ」を高め、その「クオリティ」によって投資された資金を回収して剰余を受け取る仕組みのことである。一般的な思い込みに反し、実は商業主義とは作品の内容そのものとは全く関係がない。一言で言えば、金持ちにタカり、金を集め、その金で一発ショウを打ち、回収した金をピンハネした上で山分けする、というのが商業主義の仕組みだ。とにかく売れれば何でもよい。だから商業主義という。前衛的な表現を用いていようとも、実験的な要素が含まれていても、それが大資本の金の力にタカる構造を持っている限り商業主義以外の何者でもない。

商業主義においても前衛や実験は可能であるのならば、商業主義のどこが問題だというのか? もちろん、他人の金にタカる点である。何故他人の金にタカることが問題なのか? コネ重視の風潮を生み出すからである。商業主義文化産業においては、投下される資本は大きいほど「クオリティ」に貢献するから、金を集めることが主な役割である「プロデューサー」の力が重要となる。そして「プロデューサー」の「実力」とは何なのかというと、実は大資本とのコネに他ならない。つまり、プロデューサーには実力などない。あるのはコネだけだ。しかし、商業主義文化産業プロジェクトの成功はほとんどプロデューサーの「実力」にかかっている。だから「実力」あるプロデューサーに「クリエイター」「アーチスト」という名のフリーランスは群がり、阿諛追従し、接待し、枕営業する。

想像される反論として、「そういう仕組みがあったとしても予算があるかどうかということは現場にとって死活問題なのだから、結果的に金が回るならそれでいいじゃないか、金があれば実際に一流の作品が生まれるんだから」というようなものが考えられるが、これはまたしても蒙昧である。「一流の仕事」とはクズの言い換えである。一流という概念は必然的に上からの文化的規範・模範の提示という図式を含む。「一流」の「クリエイター」「アーチスト」「職人」たちとは、結局は商業主義の下ではコネ力の強い人間のことをしか意味しない。コネ力の強いだけの、実力とは無関係に集まった人間たちが一般大衆に向けて提示した「一流」など、多人数の手が加わっているという利点以外は偶然的なものに過ぎない。しかし少し考えればわかることだが、真に文化的な運動や潮流とは、大衆の側の内発性と共にしか起こらない。内発性の伴わない流行はすぐに忘れ去られる。もしも大衆の側から起こるムーブメントが「二流」なのだとしたら、我々は間違いなく二流の側に立つべきであって、一流の仕事などは「二流」から上前をはねてもっともらしく居直っているだけの詐欺師の仕事である。

今読んでいる吉本隆明の本の中に「自立」という言葉が出てくるが、今の私にはこの「自立」という考え方と「インディーズ」あるいは「同人誌即売会」という考え方をリンクさせずにいることはできない。「ギョーカイ」のコネづくり運動とは無関係に発せられる、声を持たないと思われていた大衆たちの声が、これらの考え方の隆盛によって可能になる。毎日労働から開放された後のわずかな時間でアマチュアの作ったものが、くだらない業界の図式と無縁であるにもかかわらず、これを二流だと言う権利は、くだらない業界に細心の配慮をして作られた奇怪なオブジェを量産する「一流」の先生方にはある筈がない。