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hkmaroのブログ

読書の感想など

依然『完本 情況への発言』を読んでいる。とても面白い。本が重くて読んでいるとすぐ手首が痛くなるのが難点だが、このデカさ重さには不思議な信頼感のようなものがある。

吉本は「試行」という雑誌を発刊していて、その雑誌で書いてた文章を集めたものらしいのだが、書いてあることはほとんどブログである。しかもかなり怒れるブログであり、怒っている理由も私のような時を経た読者としては推測しがたいところが多く、なんでそこまで怒っているのかわからず、すごく奇妙な本だ。特に吉本は文壇・論壇・左翼業界などの誰かが自分に関して言及したらすぐに連載で取り上げて攻撃するし、それどころか直接自分に対する批判をしていなくとも自分が批判の対象として取り上げた者に対しては「頓馬」だとか「観念の人身売買屋」だとか「スターリニズム/スターリニスト」だとか、果ては極めて直接的に「死ね」「もう一度言う。死ね」など、真面目に読んでいるとつい噴出すような言辞でもって攻撃する。匿名での吉本批判を徹底的に攻撃するのも特徴的だ。ブログ界隈でも一時期匿名での批判の正当性が盛んに議論されていたのを思い出したが、いまどきブログを書く人は自称保守主義者であってもたいがい本名では書かない気がする。言うまでもなく本名で自分の思想信条の自由をブログで発揮しすぎると職を失う可能性が高いからなのだが、これは本名で書ける人間がいかに特権的地位にあるのかを示してあまりある。文筆家業などをしている恵まれた人々は知らないかもしれないが、職場では政治、宗教、そして野球の話はタブーである。もしも相手がこれらの話題を職場で振ってきたら、それなりに心を許してくれている証拠であると考えてまあ間違いない。必然的に、職場の部下が本名出してブログで過激な意見を言っているということが上司にバレたら、客の手前、ブログを消すことを要求されるだろうし、記事の内容いかんでは減給またはクビもありえるだろう。若手社員ならまだしも、これをもしベテランの管理者的立場にある社員が行っていたら結構問題になるだろうし、もしクビになっても年が年なので不況の中再就職先は見つからないかもしれない。実質的に言論の自由などわが国の大衆には存在していないのだ。ニッポンのサラリーマンは妻と子供を人質にとられているのみならず、精神の自由までも会社のために棄てねばならないのだ。法律で定めてあるのだから、ネットでくらい匿名で好き勝手言わしてもらってもいいじゃないか、という大衆の気持ちに、私もいち大衆として共感する。こういう現実を見ないで「表現の自由」だの「言論の責任」がどうのこうのとのたまうバカにはまさに「死ね」と言うしかない。「言論の責任」をとることは職をなげうってホームレスになり得るリスクをとることなのか? そんなことしてまでとらねばならない「言論の責任」は「言論」の発展にどう寄与するのか? 文筆タレントの表現者・ギョーカイジンとしての特権性を維持したいという欲望をしかこれらの言辞に私は見出さない。もう一度言う。死ね。