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hkmaroのブログ

読書の感想など

許されざる人間

人間はそもそも許されざる存在である、という意識が生まれるところでは、もはや人間は自分自身を動物と同じものとは見なさないだろう。意識があるところでは人間は常に環境からの抵抗を受けている。いったい人間が何から抵抗を受けているのかということについては、大きくわけて二種類考え方があるように思う。まず人間は最初に自然から抵抗を受けていると考えたはずである。自然の中で人間が寿命をまっとうするということは当然のことではなくて、不慮の死というものが人間の周りには沢山想定され、それをできるだけ避けるために自然の支配者あるいは人格化としての神を考え出して神様に対して自然の中で生きていくことについて許可を得るということをし始めたのではないかと思う。それに対して現代では「承認」という言葉で言い表されるような、社会的な生存への許可が大きな問題となっている。自然からの許可という問題は現代ではほぼ克服されたかのようであり、明日の飯や、明日の寝床の心配をする者はもはやこの社会には少ない。

さらに社会的承認にもいくつか種類があるように思われる。一つは感情的な承認だ。いわゆる承認と言ったらこちらを指すと考えればよいのだが、しかし承認にはもう一種類、金銭を媒介にした承認が存在する。何かを売って金銭を得ると言うことは、自分が売っている何かに対して社会の中に需要が存在するということであり、これが社会から必要とされている人間、というイデオロギーを創出する。本当は彼女または彼の売っている物が結果的に購入されたというだけの話で、そこに需要があったのかどうかや必要とされていたのかどうかなどはわからないだけでなく、そもそも彼女または彼という人間が必要とされたわけですらない。だが、そういう錯覚をしてしまうのが資本主義的人間である。彼女または彼は、「自分の食い扶持は自分で稼ぐ」ことによって「一人前になった」のだと錯覚する。「一人前になる」ことは彼らの間では「社会人」になることと同じである。「社会人」なるものが何を意味しているのかというと、社会の中に尊厳を持って自立して存在しているアトムのことであり、社会人になることは社会から一個人として生存することを認められたということをも意味するのである。

かくして金を儲けることと倫理との現代的な関係が捏造される。金を稼げば稼ぐほど、それは社会から必要とされる人間として認められたということを意味し、それだけ「偉い」ということになってしまうのである。いくら本人が「お金より大事な物はある」などという安い道徳を口では叫んでいたとしても、経済的自立が社会人の条件だとか言った瞬間にその安い道徳は瓦解するし、お金より大事な物が実はお金によって守られているかもしれないとは考えすらしない。

ボロい商売で儲けている人や天下り官僚が批判されるのは、本来倫理の報酬あるいは倫理の証明として社会から授けられる貨幣が、たいして倫理的でなく社会からの需要を満たしてもいない人のところに過剰に集中しているからである。

なにはともあれ、環境の神格化という意味では、文明を手にし始めたばかりの人間たちが自然を崇拝したのと同じような態度で、現代人も社会という抽象的な存在から貨幣という形で生存への許可を賜らんとして跪拝しているのであり、こういう未開な態度は早く改めた方がよいと思う。金持ちが金を持っているのは、彼が倫理的だからでも社会から必要とされる人材だからでもなく、盗みを働いたからでしかなく、これには例外は一切存在しない。