hkmaroのブログ

読書の感想など

理想主義と現実主義と時間

知識は暇人のものだということは自明だ。時間を切り売りする人間は暇を持っていないので、必然的に知識から疎外されることになる。知識を持つということは、真理へと近づくということであり、時間を切り売りする人間は必然的に真理について相対的に無知である。時間を切り売りする人間とは、いわゆる労働者、被雇用者だけではなく、資本家、雇用者であっても金儲けに精を出して日記すらまともにつけない(帳簿や日報はつけるかもしれないが)生活を送っている限りは時間を消費者へ切り売りしているのと実質的に同じである。
私たちが真理から遠くにいるということを前提において考えるならば、我々は必然的に理想主義者でなければならない。なぜなら「現実」=「真理」はあらかじめ暇を持たぬ我々のあずかり知らぬことなのであり、何らかの問題に対する立場表明をする場合いかなる主義主張をしようとも、すべてがイデオロギッシュな理想論でしかない。非暇人が「現実主義」を気取ること自体がイデオロギーだ。現実・真理の座に近づけるのは暇人である貴族的学者だけであって、彼らの発見する現実及び真理は、それを表現するための概念的枠組みがジャーゴン化することによって我々非暇人から隔てられる。これが学問の堂宇というものであり、これ自体は学者に罪があるわけでもなければ我々が無知で怠惰だというわけでもない。
現実主義者が滑稽なのは、最も現実に近づいている学者の学説を理解しないまま現実を僭称している点であるし、しかも自らの考えがイデオロギーであるという自意識を持ち得ないから二重にバカである。常識、現実、事実、これらのことを口に出す輩は知的に不誠実であるだけでなく、これらの美名に依存したあいまいな論拠で怪しげな推論を展開する一つの絶対主義をしか構成し得ず、いわば無自覚的合理主義である。
理想主義者もやはり現実からは疎外されているにしても、自覚的合理主義である点ではるかに良い。自覚的であるということは、理想の不可能性を常に念頭に置くということであり、現実主義者のみっともない雑な合理化、正当化、秩序化に比べれば、むしろ常に外へ開かれている。
そして現実の政治は過激な理想主義者と過激な現実主義者という、意志決定の主体における二つのイデオロギーの力のバランスをとる形でなされるのであろう。現実主義者が無根拠な「常識」と民族的共同性に基づいた「正論」のもっともらしさで無理矢理に民意を捏造する有利な立場をもっているからには、この事情を知る人間は常に理想主義的理想主義の立場に身を置くべきだ。そのことによってこそ、政治が適切に穏当な落としどころを得るのではないだろうか。