読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hkmaroのブログ

読書の感想など

「ARE」3号を出版した

去る11月3日、我々中島総研は機関紙であるところの「ARE」の第三号を文学フリマ会場でライブ出版し、これを200円で頒布した。手にとって下さったかた、買ってくださったかた、どうもありがとうございました。

以下に、どのような本を作ったのかを紹介するため、内容の一部を抜粋し掲載する。

f:id:hkmaro:20111103075022j:image:w360
ARE VOL://003


INDEX


1.特集:反資本主義革命のためのオタク批評キーワード70

1アイロニー
アジール
アダルトチルドレン
4イデオロギー
5イメージ
6エロス
7エートス
8寛容
9記号
10共同体 
11虚構 
12去勢 
13言語 
14現実 
15構造 
16合理的期待仮説 
17コミュニケーション
18コミュニタリアニズムコミュニタリアン
19差異 
20サバイブ系 
21自意識
22システム 
23実存 
24資本主義 
25シミュラークル 
26社会 
27ジャンル 
28主体性 
29少女 
30象徴 
31承認 
32新人類 
33身体
34成熟 
35セカイ系 
36セクシュアリティ
37全共闘
38全体性 
39疎外 
40存在論
41他者 
42脱構築 
43団塊ジュニア
44父 
45同調圧力 
46動物的 
47トラウマ 
48内面 
49ナイーブ 
50ナルシシズム 
51二元論 
52ニヒリズム 
53人間的
54認識論
55パターナリズム
56母 
57反省 
58反応 
59批評 
60フェイク 
61弁証法 
62ポストモダン 
63メタファー
64モラトリアム
65リアリティ
66リバタリアニズムリバタリアン
67ロゴス 
68ロスジェネ 
69ロマン主義 
70枠組


2.レビュー:意識の高いラノベ


『灼熱の小早川さん』田中ロミオ
『全滅なう』十文字青
ドッペルゲンガーの恋人』唐辺葉介
『僕の妹は漢字が読める1』かじいたかし
魔法科高校の劣等性1、2』佐島勤



編著者

■hkmaro(えいちけーまろ)

1983年熊本県生。早稲田大学法学部を6年生で卒業。所沢市在住。
学生ニートとしての経験を数年間経て就職し、現在もワーキングプアとして活躍するかたわら、批評系の同人サークルとして中島総研を学生(がくしょう)とともに創立、同時に機関紙『ARE』を共同で創刊する。(hkmaro)

■学生(がくしょう)

1985年東京生。山梨、福井、埼玉を経て東京在住。早稲田大学政治経済学部を6年かかって卒業。
携帯電話・スマートフォン向けの乙女ゲーやソーシャルアプリケーションを作る会社に勤務しているワーキングプア。月の労働時間は300時間程度で、うち100時間くらいが残業。きわめて切実な問題として資本主義を憎悪するが、もともと超越論的な創造性や損得抜きの感情的共同体をナイーヴに信仰するセカイ系。(略記:gs)


「特集:反資本主義革命のためのオタク批評キーワード70」の「少女」の項


■少女
 少女とはモラトリアム期間にある女性の一部を指して言う言葉である。近代以前の社会には少女というものは存在しなかったと大塚英志は『少女民俗学』(光文社カッパ・サイエンス、1989年)で述べている。近代以前の民俗社会では、女子は十三歳を境に「ユモジイワイ」という通過儀礼を経て一人前とみなされていた、という(同書、41ページ)。大塚によれば、これは女子が初潮を迎える年齢と大体一致しており、近代以前には女は子供を産めるようになったら「大人」になっていた。
 なぜ少女という存在が生まれたのかというと、社会が近代的な制度を取り入れると、結婚できるようになる年齢まで(初潮を十三歳だとすれば、現在の日本では十六歳までの最低でも三年間、親の同意なしで結婚できる二十歳を実質的な婚姻可能年齢と考えると、最低でも七年間)の猶予期間ができるからである。この猶予期間には体は「大人」なのに制度的に「子供」という中途半端な状態でいる期間が生まれてしまうが、この宙に浮いた状態の女性たちの中に「少女」がいるのである。
 さらに大塚は少女の特徴を同書で様々に展開するが、最も重要なのは「制服」である。大塚は以下のように言う。「<制服>を<かわいい>と肯定する少女たちにとって<制服>は管理教育の象徴ではけっしてない。むしろ<制服>は、自分が<少女>であることを誇示する記号としての意味を持っているのである。だからおニャン子クラブは「セーラー服を脱がさないで」と歌ったのである。セーラー服を脱いだら<おばさん>になってしまう。つまり、<制服>でいるあいだは、少女の時間を保障される。ここに少女文化における<制服>の本質がある」(同書、37ページ)
 宮台真司らの『サブカルチャー神話解体』(ちくま文庫、石原英樹、大塚明子との共著、2007年 初出はパルコ出版、1993年)においてはさらに細かい分析がなされ、そもそも「少女」という概念は「清く正しく美しく」という理想とともに上から国家的に(つまりは「大人」から)与えられたものだと指摘する。それが六十年代には大人と対立する若者という若者自身の自己イメージが生まれ、七十年代には同じく若者自身によって「少女」の文化ではなく「女の子」の文化が生まれたという。宮台らの同書における議論においては既に六十年代前半には「少女」は消滅しており、それ以降「女の子」があるだけである。
 以上を踏まえて現在の日本に目を向けてみると、「少女」と「女の子」に対して新しい議論の題材が見つかる。例えば少女に関しては、宮台らのいう「清く正しく美しい少女」は確かに存在しないが、オタク文化においては「美少女」という特殊な存在が未だあるという点だ。「少女」が非少女である「大人」の求めるままに作り出された存在であったとするならば、やはり美少女も非美少女によって求められるままに作り出された存在だ。それだけならまだ実体を持たないから良いのだが、オタク文化の内部にはコスプレイヤーやサークルクラッシャーや声優などの、「美少女」としての自己を客体としてオタク達にアピールする存在が一定数いる。「少女」の問題系に接続して語ることは不可能ではないだろう。また「女の子」に関しては、二十代後半の「女の子」をターゲットにした宝島社の雑誌『sweet』が、雑誌不況の現代に100万部を超えて発行されていると言われているように、「女の子」という言葉の適応できる年齢の範囲(すくなくとも本人が「女の子」でありたいと考える年齢の範囲)が大きく広がっている。これはモラトリアム期間の現代における拡大と無縁ではないであろう。(hkmaro)


「レビュー:意識の高いラノベ」より『全滅なう』の項


■『全滅なう』十文字青
 十文字青は特殊な作家だ。唯一の長編シリーズ『薔薇のマリア』で生計を立てつつ、『第九高校』シリーズなどまったく売れない(本人談)小説を平行して出版し続けており、ラノベ通の間ではもっぱら、この売れないほうの十文字青作品が「ラノベらしからぬラノベ」として注目されている。第九高校シリーズは、ラノベやエロゲーでテンプレートとして流通している設定や人物類型を利用しながら、そのことをリアリスティックに突き詰めて書き切ることで斬新な世界観を創出していた。『ぷりるん。』では、主人公に懸想するあまり最終的には主人公と一緒に地下鉄に飛び込んでしまうヒロインや、兄に構ってもらうために自傷的に行きずりのセックスを繰り返す妹などが描かれる。2000年代前半までの「名作」と言われるエロゲーには、こうしたメンヘラ的性質を持った攻略キャラクターがほぼ確実に1人は登場していたが、エロゲーにおいてすら通常はバッドエンド、つまり可能性の1つとしてしか描かれ得ないこうした展開を、唯一真性の「トゥルーエンド」しか持たないライトノベルで行ったことは注目に値する。また『萌神』では、戯画的ラブコメのためのガジェット設定として登場させられていた萌神が次第に作品世界そのものと齟齬をきたし始め、終盤において完全に唐突に導入される類型的なファンタジー世界での冒険譚によって読者は完全に置き去りにされる。ご都合主義の為に導入したはずのガジェットは次第にご都合主義そのものを破綻させ、もはやご都合主義すら呼べないような、完全に断絶した2つの物語世界のキメラと化していく。恐らく執筆時間が足りなかったんだろうな、とも思わせつつも、ラノベの袋小路と臨界点を表した優れたメタフィクションであることは確かで、その清々しいほどの未完成感とも相俟って不思議な読後感を形成する。今回の『全滅なう』だが、タイトルから想像するようなTwitterとの関連性は、一切、本当に恐ろしいくらいに一切、無い。これがまず1つの驚きではあるのだが、このことには深く触れない。というより触れることができないくらい謎なので、内容に入ろう。全人類を滅ぼす「全滅因子」を生来的に持った不登校の少女・夕鶴子を、優等生として立身出世を企てる天川が学校に誘い、2人が次第に惹かれ合っていく王道のセカイ系ラブコメである。夕鶴子が端的に「全人類を滅ぼす」と設定されていることに注目しよう。これは言うまでも無く、意図的に設定された、あまりにもセカイ系的なセカイ系的設定である。セカイ系に分類される作品においては、世界と少女を天秤にかけた葛藤がその物語快楽のコアとなるが、それでも通常は「なぜその少女が世界の命運を握っているのか」の説明は、ある程度間接的に為される。たとえば『マクロスF』では、主人公アルトとランカの恋愛が確かに人類の命運を握っているが、それは「バジュラと呼ばれる宇宙生物が人類と敵対しており、ランカの歌声が含むフォールド波がバジュラの習性に働きかけることができるため」と説明される。荒唐無稽ではあれ、そこには一定の演繹があり、世界の存亡には一定の、間接的な理由付けが為されている。それに比べると、『全滅なう』の設定はきわめて奇抜で、はじめから少女の存在世界の滅亡が結び付けられた状態で作られており、セカイ系的舞台設定によく馴染んだ人間でも——というよりよく馴染んだ人間ほど面喰らう。この時点でこの小説が、「セカイ系」を批評的に扱おうとしていることは明白だが、ではそれはどのような形で為されるのか。一言で言えば、「何も起こらない」ことである。この小説では、当初自身の立身出世の為に夕鶴子に近付いた天川が、徐々に夕鶴子に惹かれてゆき、次第にその初心を内心で恥じるようになる、という意識の流れが全編を通じて描かれる。セカイ系的想像力の元祖とされる『エヴァ』が、重厚なSF設定と思春期の承認欲求を重ねて描き、また『最終兵器彼女』が徐々に悪化しているらしい戦況や、人間性を喪失していくヒロインを描いていたのとは対照的に、『全滅なう』では2人を取り巻くこうした大状況は後景としてすらほとんど語られない。「セカイ系」が「セカイ系」と呼ばれる所以は、「2人」と「セカイ」の間にあるはずの「社会」という中間項が丸ごと脱落しているからだが、『全滅なう』においてはもはや「セカイ」すら描かれることがない。『全滅なう』は、「セカイ」抜きのセカイ系である。かつて宇野常寛セカイ系的想像力を「世界の命運が懸かってるんで仕方なく、みたいな言い訳付きでないとキョドっちゃって恋愛できないメンタリティ(的な感じ、細かいことは忘れた)」というように指弾したが、『全滅なう』はセカイ系の流れを汲みつつもその半歩先を行っていると言えるだろう。そこにはメリットクラシーに貫通された「強い個人」であったはずの天川が、功名心から夕鶴子に声を掛け、恋をし、変化していく様が内省的に描かれている。天川は逡巡しつつも、その恋を主体的に引き受け、それまで頑なに守ってきた自己が解体され、夕鶴子の影響のもとに再構成されることを受け入れる。ラストで天川が自分の肉体を捨てて夕鶴子に駆け寄り、人間としての生を捨てて夕鶴子配下の「眷属」に生まれ変わることは、このような関係性の中での変化を象徴化したものだと言えるだろう。そのプロセスはオタクの肥大したプライドを軟着陸させる作業にも似ており、私には『全滅なう』が、ポスト空気系世代のリア充オタク達に引け目を感じているオタク第3世代に向けた、十文字青からの1つの示唆のように思えている。革命力72。

本書あるいは中島総研に関するお問い合わせは、ツイッターアカウント@nakashimasoukenまで。