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hkmaroのブログ

読書の感想など

11月3日は文学フリマの日だったのだが、それについての報告はまた改めてしたいと思う。

安月給でこき使われる社会の底辺に位置する人間は、一体何に人生の慰めを見いだすのであろうか。貧乏であるが故に能力がなく、能力なきがゆえに労働基準法を無視されても文句を言えず、かるがゆえに貧乏人は忙しい。もちろん忙しい金持ちもいることはいるが、忙しい金持ちは金を貯めて投資家になることができるし、一部の金持ちが忙しいのは、それがなかば趣味のようなものだからだ。古来より基本的に金持ちは暇である。

シモーヌ・ヴェイユは工場労働者のためにギリシア悲劇を翻訳したりしていたらしいが、私はヴェイユ的な人生の慰めは所詮インテリ(=本質的には金持ち階層起源の文化に浸って育てられた人びと)が貧乏人に下賜するものでしかなく、工場労働者が喜ぶようなものではなかったんではないかと思う。工場労働者がよろこぶ(文化的な)ものといったら、現代ではマンガやゲームやテレビやDVDでしかない。

私は工場労働者ほど悲惨な労働環境にはいないが、まあ安月給で働いているわけで、そういう私が28才にもなって未だにラノベやアニメなんかを好むのは、自らの人生のみじめさがそうさせているのかもしれないと思う。別にラノベを読むときに自己のショボさをしみじみ感じながら手に取っているわけでは全然ない。しかし、安月給で忙しく働くこの世の底辺の方々が、安月給であるが故にクルマや性風俗産業や結婚やグルメや服などから縁遠く(逆に言えばこれらに縁がある人はまだ底辺ではないと言えそうだ)、それ以外のものに逸楽を探そうとすると必然的にマンガ的な軽薄な文化に行き着くわけであり、この手軽さやジャンクさ加減は、貧乏であることと強く結びついているのではないかと素朴に思う。

一方でこの軽薄文化の内部においても階級間の格差はあるわけであり、例えば金持ちのオタクのようにフィギュアとかDVDとかゲーム機とかを全種類揃えていたりすることは、小さなことのようにみえるかもしれないが貧乏なオタクにはまず無理なのであって、貧乏なオタクはせいぜいブックオフで105円のマンガをそろえたりゲオで100円のDVDをレンタルしたりヤフオクで中古のフィギュアを落札したりするくらいなのである。オタクでない人の軽薄文化について言えば、貧乏人は外見上オタクと同じように軽薄文化のなかにいるだろうが、金持ちはもはや軽薄文化を脱するであろう。軽薄文化を脱したからといって現代の金持ちが高級文化を愛するとは言えないが、クルマや女やグルメや服や不動産など、とにかく金を沢山使うようになることには間違いなかろう。

つまり、オタク文化が階級縦断的であるということは言えない。たしかに軽薄文化は金持ちにも親しまれていはいるが、受容のされ方が全く違うと言って良い。105円でしかマンガを買えない層は、必然的に105円で売ってあるマンガしか読むことができない。いわゆるサブカルマンガみたいなものは、育ちのブルジョワ的な富裕さや、あるいは周囲の人間のブルジョワ的な富裕さに基づいた価値観を前提としなければほとんど目にも触れないものだ。特にこのような階級間の乖離は、都市と田舎という地理的な違いと組み合わさって激しくなるだろう。都市的な文化の混合がある場所では階級縦断的な現象がまだ起こりうるが、ほんとのド田舎にはブックオフやゲオすら無い。

しかし、貧乏人のこのような文化的空虚さは、ときにそれを自覚した瞬間に「哲学」を希求させる場合がある。「哲学」は通俗人生哲学でも学問的哲学でもどちらでもよい。我が国に限って言えば、人は大災害などに見舞われて諸々の価値あるものが崩れ去ったときに、何故か読書や哲学を求めることがあるようで、第二次世界大戦直後には西田幾多郎の『善の研究』を買い求める人が本屋に行列を作ったという伝説があるし、今年の震災をきっかけに読書をより大切に思うようになった人は2割いて、しかも少なからぬ人が「人生や物事を深く考えるきっかけになる」と答えたという。貧乏人もその経済的困窮具合を「災害」として受け止めるようになったら、つまりあらゆる価値あるものが自分にはもはやないのではないかと疑い始めたときに、「哲学」を求めるのかもしれない。

すると、マンガ的な軽薄文化と「哲学」は同じような種類の人が求めるものだと言えるのではないだろうか。私のように、学者を志望したわけでもないのに「哲学」の本を読み、その一方で28才にもなってラノベを読んだりアニメをみたりしている者がいる。「哲学」などという言い方をするとごく少数のワープアオタクがそうであるかのように思えてしまうが、しかし「人生や物事を深く考えるきっかけになる」本は「哲学」に限らず、オカルト本や宗教本など様々にあるんである。哲学や革命家が掬うべきなのはこうした空虚さに耐えかねている人びとであって、こういう人たちがネット右翼のように政治に逃げ場を見いだすならまだしも、オカルトに逃げ込んでしまう前に、貧乏人にも届く哲学的な言葉があったらまだ世の中変わるんではないかと思わないでもない。そういう夢のある話を考えながら生きていきたいものだ。