hkmaroのブログ

読書の感想など

ミステリと現実逃避

ミステリとラノベの文章の相似に最近気付いた。
いわゆる新本格ミステリという推理小説のジャンルには、推理小説愛好家というのが複数人登場して、過去のミステリの名作と、それらで使用された殺人の手法とを振り返りながら推理合戦を繰り広げるという一つのパターンがあるのだが、こういう小説の形式は同じくミステリ好きの読者を主に想定したものであって、作家と読者との間に存在する共同性をあてにしている。
そしてこの事情はラノベにおいても顕著で、文章中に2ちゃんねるやアニメやマンガなどからのパロディがちりばめられることはもちろんのこと、主人公やその友人たちやヒロインたちまでもが二次元オタクであることは全く珍しくなくなった。とくにハーレム系学園ラブコメでは主人公がオタクであることは半ば当然の要請であるかのようだ。
ちょっと昔のミステリだと医者や作家やチンピラやなんかの、色々な社会階層の人々が絶海の孤島に閉じ込められたりして、様々な人間のあり方を推理ゲームという形式を使うことによって相対化するようなメタ小説的なところを見ることも可能なのだが、しかしそのメタ小説性は年を経るごとに少なくなってきていて、ミステリの内輪ノリ的な領域に引きこもっているように思える。久しく「本格」ミステリの新人やヒット作というのを見ないのがそれに起因するのかはわからない。逆に今ミステリで売れている本は、たいてい表紙にアニメマンガっぽい美少女の絵をあつらった半ラノベ的な小説である。そういう本はえてして内容も半分ラノベであり、マンガアニメからの影響もみることができたりする。最近出た古野まほろの『天帝のはしたなき果実』の文庫版もそういう本の一種である。この本が面白いのは、アニメマンガの引用のみならず、ハイカルチャーからの引用が非常に膨大であるにも関わらず、それらの引用は両者を全く区別することなく単なるオタク的知識の羅列に終始している点で、引用元になぞらえて話を展開させようという意図がほとんど見られない点である。一貫した意味の連なりに個々の挿話を組み込もうという意志の薄弱さは、いかにもポストモダンな感じがするが、この特徴は神世希の『神戯』と比べると面白いんではないかと思う。神世希の小説は、その他のラノベと同じくアニメマンガの多数の引用の上に成り立っているのだが、というかこのラノベ的カットアップを徹底したのが神世希という感じなのだが、もやは神世希はアニメマンガ的世界の外の世界を必要としない。それが良いか悪いかは別として、「大人」の政治や経済的事情などは描かれる必要がない。
こういう傾向は大なり小なり新本格ミステリにもあったものだと思う。政治的表象を推理小説のネタに溶解させてしまうことによって政治や経済というものを相対化して、それによって政治や経済に主体的に関わるべしという当為までも相対化するような態度を明白に新本格ミステリに私は見る。もしもそれを、政治と美は分離されるべき、というテーゼと混同して正当化しようとするならば、誤りだといわざるを得ない。これはプロレタリア文学やノンフィクション小説の存在を全否定しかねないし、そもそも小説は政治的判断をも文体に反映してしまうものだ。いくら小規模な日常世界を描いた「私小説」であっても、「個人的なことは政治的なこと」なのである。それにいくら「政美分離」のような理想を並べても政治は美を利用するので、我々がそのプロパガンダを見抜くリテラシーを身につけることこそが必要だし、時にそのプロパガンダを発する側に立つことも辞さない判断が、政治的行動にはどうしても必要なのではないかと思う。
だが、政治や経済の問題を見ないことにして、あたかもそれらが瑣末な問題であるかのように推理合戦やラノベ的ハーレムラブコメにうつつを抜かす態度は、奇妙にモラトリアム的なぬるま湯の世界を表現するし、それを徹底すればなんかすごいものができるのではないかという気もする。つまり、そのぬるま湯の価値と、ぬるま湯からの政治の排除とは、セットでしか存在し得ないようにも思う。現に神世希の小説はなんかすごかった。斎藤環ヘンリー・ダーガーの物語に見出したような自立的な創作の世界は、それを極度に徹底すれば現実逃避の手段から現実否定の手段へと進化するのではないであろうか。逃避でなく否定の契機となるのであれば、それだけで既に十分に政治的である。あたかも本田透が「勝利宣言」をしたのと同様に。