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hkmaroのブログ

読書の感想など

教育と人間

教育とはとにかく「読み書きそろばん」だと言われることがある。一面ではこれは正しく、文字の読み書きができ、数字の計算ができれば、普通の労働者になる限り、あとは就いた職に固有の経験を積んで専門的知識を得て職場の慣習をおぼえれば、誰でも社会の歯車にはなれるだろう。社会の歯車にはなれても、コミュニケーション能力、もっと言えば会話力、もっと厳密に言えばノリの良さがなければ、職場共同体からつまはじきにはされるだろうが、それはそれとして、とりあえず仕事を回していく能力の基礎としては、読み書きそろばんができるというのは、これは非常に重要だし、欠くべからざる能力であることは間違いない。
じゃあ、もしも「読み書きそろばん」を覚えないまま大人になった人はどうなるだろうか。仕事をするにしても、仕事の指示が書かれた書類を読むことができず、いちいち口頭の説明を要するだろうし、地図を見ても地名が読めないから土地勘に頼るしかなく、非常に不便だろう。また数字の計算ができないので、金額のやりとりをすることができないし、そこを侮られて給料も不当に低く算出されてしまうかもしれない。ようするに日雇いの単純肉体労働しかすることができない。というよりも現代社会では単純肉体労働をするにも読み書きそろばん程度の知識を必要とする場合が多く、大変な苦労をすることは目に見えているし、雇う側にとっても大変な不利益である。
そうすると「読み書きそろばん」ができる人とできない人という全く違うあり方をしている二種類の人間に、世の中の人をわけることができるわけだが、国民の識字率がほぼ100%であるという日本に生まれたわれわれが「人間」と言うとき、それは「読み書きそろばんくらいはできる人間」をしか意味していない。そういう日本人が「読み書きそろばん」のできない人と一緒に仕事をせねばならなくなったとき、どう思うだろうか。たいていは、こんな奴と一緒に仕事したくねえ、めんどくせえ、と思うのではないであろうか。学校で何を勉強したんだよ、と思うのではないだろうか。
ここで私は教育の大切さを語りたいわけでもなければ、教育の程度による差別について語りたいわけでもない。教育は人間をかくも後天的に構成するものなのだということを考えている。「インテリと大衆」であるとか、「貴族と平民」であるとか、「自由人と奴隷」であるとか、人間を二つに分ける発想はいろいろとあるが、これも全く根拠がないわけではない。上に上げた三つの例に限って言えば、これらは全て二者間に教育の程度の差を認めることができるのではないかと思う。教育の程度という言い方が悪ければ、違う教育を受けて育っていると言える。
この意味で「人間の本質」をインテリの側から押し付けるのは誤りだし、逆に大衆の側から「人間の現実」ばかり主張するのも誤りだ。単にそれは違う教育を受けることによって、違う人間として構成された、それぞれの人間の集まりだというだけであって、インテリの言う「人間の本質」は「インテリの本質」でしかなく、大衆の言う「人間の現実」は「大衆の現実」でしかない。しかし逆に言えば「インテリと大衆」という二分法が有効なくらいには彼らは全く違う人間集団なのだ。
もちろん国民のこのような質的差異は本来あってはならないものである。であるなら問題は、識字率ほぼ100%の我が国において、果たしてインテリが勉強しすぎているのか、それとも大衆が勉強しなさすぎなのか、どちらであろうか。あるいはやはり、単に教育の質が違うだけで勉強するしないの違いではないのであろうか。つまり、インテリにも大衆にも同じ質の教育を行うことが求められているのだろうか。
どれが正解なのかはわからないが、明らかに言えることは、人間がここまで「読み書きそろばん」に頼って生きてきたからには、勉強をある程度怠けることが国民の質を均一化することに資するのでそれを肯定すべき、という答えを採用すべきではないということだ。ここで「読み書きそろばん」を喩えとして持ち出すのは正しくないかもしれない。インテリと大衆の差とは、簡単に言って本を読めるかどうかの違いであり、もっと言えば難しい言葉使いの本を読めるかどうかの違いである。つまり語彙の違いに還元できると、私は思う。
私自身のことを振り返ってみても、学部を卒業しただけの自分のことは口が裂けてもインテリだなどと言えないが、多少難しい本を読むようになった今現在から思い返すと、二十代前半のころの私は相当なバカだった。文学の本や哲学の本を読み始めはしたものの、それらの本に書いてある言葉の意味がわからなかった。しかし人生に行き詰まっていたその頃の私(今のほうが行き詰まっているが)には何としてもそれらの本を読まねばならぬという思い込みの激しい衝迫があり、しかたなく大学受験のときに買った電子辞書に新しい電池を入れなおして、わからない言葉に出会ったら印をつけて(図書館の本だったらノートに書き出して)、電子辞書で調べまくった。そういう小学生の読書みたいな地道な勉強が奏功したのかどうか、なんとか今は本が読めるようになった。
もちろんインテリは外国語も読めなくてはならないから、私ごときがいくら日本語で書かれたチンピラ学者の本を読んでも、インテリになったことにはならないのであるが、しかしそうするとネット辞書くらいしか使わない生活をしている一般大衆と、なんらかの辞書や事典類を常に持ち歩いているインテリとの差はますます激しいということになる。だからといって、難しい言葉遣いというものを、大衆の語彙から完全に忘却させてしまうのは、本を読む行為に固有の価値があるかどうかという話とは全く別の次元でまずいと思う。なぜなら、日本語という同じ言語を使っていながらも、単なる語彙の違いだけで、大衆はインテリの書いた文章を読まないというか、読めないからだ。インテリ間にのみ流通する言葉というものがあって、それは大衆が知らない間に重要なことを決めてしまったり、大衆が知れば大いに武器となるような知識を図書館の闇に埋もれさせてしまう。ラテン語を使うインテリと日本語を使う大衆、というように別々の言葉を使う集団が日本に同居しているならいざ知らず、わが国ではインテリも大衆もおおむね日本語しか使わないのに、しかも「読み書きそろばん」くらいならほとんどみんなができるのに、インテリの言葉と大衆の言葉が環流していない。昔から文字を読むことのできる能力の有無は、上の階級と下の階級とを隔てる要素だった。現代日本では文字くらいならなまじ誰でも読める分、「インテリと大衆」という二つの集団の存在やその差が見えにくくなっているような気がしないでもない。大学全入時代、などと言われることがあるが、いまどき大学くらい出てても珍しくないからこそ、自分が下の階級であることや、上の階級が何をやって生きているのかということがわからないんではないか。単に資格を持ってたり金を持っていれば上の階級だ、というわけではないし、インテリであることと上流階級にいることとは必ずしも同じではないが、例えば貧乏なインテリがいたとしても、彼は「公務員」達がどのような罪深いことをしているかであるとか、「役員」達が時給何十万で働いているかという事実を知ることができるし、それを批判することもできる。私は以前サイードが似たようなことを本で書いていたことを、サイードのめぐまれているように見える現実的立場との矛盾を考えて肯定しなかったが、しかし今は考え方が変わってきた。その理由は、大衆が「難しい言葉」を頭からシャットアウトしてしまう、その知的怠惰さに危機を感じるからだ。もちろん私自身はむしろ政治や政局には並みの二十代の半分以下の興味しか持たないし知識もないが、しかし逆に政治や政局に旺盛な関心を持つ二十代の大半が、政治家の人柄や、他国へのレッテルだけで政治に対する意見を述べているようにしか見えない。「読み書きそろばん」くらいはできて当たり前だが、逆に言えば大衆はいつまでたっても「読み書きそろばん」レベルなのである。特定の政治家や評論家に自己の政治的意見を全部委任して自分は何も考えない、というのではあまりに未開なんじゃないか。それだったらむしろ政治には全く無関心というほうがマシだ。なぜならいくら無関心でいようとも政治は向こうからやってくるからだ。無関心なままで生活の具体的な局面において政治とぶつかったほうが、各々が自分の頭で考えた政治的意志を発することができるだろう。そこにこそ真の政治的利害が表れるであろう。ひきこもりニートが自らの実存を安易に国家や政治家個人に投影するあまり、むしろ自分たちを搾取しようとする政権を支持してしまうなどという滑稽な事態は、この場合起こりにくいのではないか。
専門的職業訓練を早期に始めるために、一般教養の教育を早めにおしまいにしてしまうことは、高度に分業化した社会ではしかたがないのかもしれないが、それはそのままでは大衆の蒙昧化をも同時に意味する。政治や社会について深く考えずに、ただ目の前の書類を片付けていればいい、ということにならないように、互いに啓蒙しあう仕組みが要るように思う。その仕組みを実現するのが革命家の仕事なんではないか。