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hkmaroのブログ

読書の感想など

猿の惑星:創世記

猿の惑星:創世記』をみた。これは非常に面白い映画だ。友人たちと観にいくと決めてから、オリジナルの第一作と第二作をみていたのだが、これは観ておいてよかったと思った。『猿の惑星』と対になる表現が沢山入っていて、多分この創世記だけをみても映画の半分も理解したことにはならないだろうと思う。

熊本の代々木ゼミナールで浪人生をしていたとき、現代文の講師が『猿の惑星』の猿は欧米人が高度成長している日本人へ抱いている恐怖を形象化したものである、というようなことを言っていたのをなぜか『猿の惑星』を観てもいないのにおぼえていたのだが、確かにあの猿たちは理性はなくとも知恵はあり、文化は貧しくとも武器はあり、道徳に乏しくとも強者には媚びへつらうのは得意で、エコノミックアニマルあるいはイエローモンキーである我々日本人のことだと解釈することは十分に可能である。それどころか『猿の惑星』の真価は、あの言葉をしゃべる猿どもが当時はもっぱら日本人の比喩として解釈されていたかもしれないが、今現在観返してみたら、むしろ全世界的な「人間の猿化」を予言しているという風にも観ることができる点にある。この点においては時代の移り変わりがむしろ作品のテーマを普遍化し高次化し、結果的におそらくいつ観返しても消えない批評性を持つ映画となった。知能は高くても知性を持たない猿と、知能と知性を兼ね備える人間とがいるが、しかし有名なラストシーンでその差も相対化されるのである。(ここでいう人間には、作中で野生化した「ヒト」のことは含んでいない)

だが『創世記』のほうはどうだろう。完全に視点が猿の側に移りかわっている。観客は完全にチンパンジーのシーザーに感情移入させられる。第一作で人間が言葉を奪われ、檻に入れられ、水を浴びせかけられ、実験動物の役割を与えられていたのに対し、『創世記』においてはそれら全てがことごとくさかさまにトレースされる。すなわち、言葉から疎外されているのは猿であり、檻に入れられるのも猿であり、水をかけられるのも猿であり、動物実験の材料になるのも猿である。もちろんこれらは、人間がもともと持っている猿観を覆すものではまったくない。むしろ我々が持っている猿へのイメージに忠実であって、なんらおかしいことはない。猿などしゃべれるはずがないし、檻に入れなければならないほど野蛮だし、ときには水でもかけて罰を与えねばならないほど従順さに欠けるし、せいぜい人間様の役に立つよう実験台の役目を果たすくらいしか能がない。だが、こんな当たり前の猿観が、『猿の惑星』第一作を観ているかどうかで全くかわる。主人公の猿シーザーやその他の猿に対して行われる様々の虐待的行為は、『猿の惑星』においては他ならぬ猿が人間に対して行っていたのである。オリジナル第一作を観ている観客ならば、これらの場面を目の当たりにして、「人間の猿化」という、第一作が衝撃的に突きつけたテーマを『創世記』が完全に理解した上で保持していることに、新しい衝撃を受けずにはいないだろう。今作では知能だけ高くて知性に欠けているのはむしろ人間であり、新薬の開発を金儲けの事業としてしか捉えていないのだ。しかし逆に猿は言葉とともに知性に目覚める。あたかも第一作で主人公の人間テイラーが初めて「汚い猿め、さわるな」と言って、それを見て驚いた猿たちと同じように、我々人間は『創世記』の主人公の猿シーザーが初めて「ノー!」と叫び人間を打ち負かすのを見て、そこに明らかな知性の萌芽をみるのである。

それだけでなく、この映画は革命の映画でもある。これはあからさまに見て取れる要素であって、むしろこの『創世記』を革命のことを扱った映画だと認めないほうが困難である。ゴリラの死に様にそれは最もよく現れている。知性を得た猿が、自分の単純な生存を超えて、自らの命よりも組織のリーダーの命を守ることを選んだ。自分よりも組織の存続を選んだということは非常に示唆的で、ここから猿の共同体が生まれると言っても良い。シーザーたちは森に、死んだゴリラの墓を必ずや作るだろう。この映画の内容を端的に言い表すならば、猿たちこそが人間的で、人間こそがサルなのだ。この映画は、我々観客にサルであるのか人間であるのかを問うような力を持っている。その問いに気付かない者は、もはや既にサルである。しかし現実世界には映画に出てくるアルツハイマー治療の新薬はないし、しかも人間にとってそれは毒でしかないのだ。いよいよ人間の世の中にサルが蔓延る。

あと、今回『創世記』のネット上のレビューをいろいろとみてみて思ったけど、やっぱり世の中の人は映画を「面白いか面白くないか、良いか悪いか、感動したかシラケたか」でしか評価していない。あとは、どの俳優の演技がうまいとか、どの俳優がおもしろかった、かっこよかった、かわいくなかった、キレイだった、とかいうものだ。脊髄反射とか感覚とかでしか映画を観ることができず評価することができず、映画をみることは美味しいものを食べる行為と同格であるかのようである。人間というには明らかに知性が足りていなくて、「ツッコミどころ多すぎ笑」とでも書けば映画を冷静に評価できていることになってしまう。ツッコミどころがあったらなぜダメなのかについては何も言えない。その言葉を持っていない。もちろん私自身映画なんてそんなに観るほうでは全くなく、むしろ世の中の人よりも全然映画なんか観ない人間なのであるが、そんな人間からみても明らかにバカだとわかる「自称映画通」ってどういう「人間」だよ。やっぱりサルなんじゃないのか。