hkmaroのブログ

読書の感想など

最近とある理由から2ちゃんのサブカル批評家のスレをみていたのだが、まあ、どこ行ってもアンチの威勢が非常によいのだけれど、面白いのは2ちゃんに常駐しているアンチは批評家の過去の相互に矛盾する発言とかをいちいちテンプレ化して共有している点で、これはあらゆる意味で人文的に価値のある活動だ。こういうことを哲学者とか作家とかとかについても行えばいいのに、そういう真面目な話になるとネットではなかなか盛り上がらない。
特に福嶋亮大のスレで今年の四月くらいに『スピノザの方法』の書評を福嶋が行ったときにかなり盛り上がっていたということを知ったのだけど、福嶋による『スピノザの方法』の書評がちゃんとした哲学・文学上の知識に基づいておらず適当に書き飛ばしただけであることを暴露したブログがあって非常に感心した。こういうことができるのはアマチュアだけであって、同じ文筆界に身を置く者であったら編集者とか著者本人なんかに気を遣ってなかなかやりにくいところもあるだろうと思う。大学の博士課程とかまで終えている人が、ちゃんとした資料を参照せずに、あるいは不勉強なままで他人の批判をした挙句に、謝罪も反論も何もしないというのはやはりダメであり、こういう批評家には二度と出版の機会を与えてはならぬと思うと同時に、このようなブログがもっと増えると人類の人文的知識の発展が活性化すると思う。最近だと大澤真幸橋爪大三郎の『ふしぎなキリスト教』も話題になったが、こうした消費者の側からの批判はどんどんなされるべきで、その批判に応える力もない「知識人」などに出版の機会を与えてはならない。
で、それはそれでいいんだけど、不思議なのはアカデミックな哲学の語彙と批評の語彙が混同されて使用されている状況である。これは批評家の側もそうだし、あるいは適当こいている批評家を痛烈に批判する在野の2ちゃんねらーやブロガーもそうである。日本の批評には伝統的に論理性などないのであり、あるいはアカデミックな厳密な概念の運用というものも皆無なのであり、そういうものを批評家に求めるのは筋違いと言えなくもない。批評というのはほとんど小説であって、小説の登場人物が厳密に論理的な行動ばかりしていてもつまらない。つまり、読んで面白いのが批評であり、批評家がいくら頑張ってもそれは学問的な業績とは何ら関係がない。実際に、批評は哲学の概念から借りてきた語彙で色々と「論」じたりするけれども、例えば「実存」という概念一つとってみても批評家が使う場合は哲学用語としての現実存在のことを意味しているわけではない。批評家の言う「実存」とは多くの場合肥大化した自意識を指すものであり、哲学的概念と全く何の関係もない。見かけ上哲学の語彙を都合よく換骨奪胎して目も当てられないような「論文」をものしているのが批評家なんだという風に見えてしまうが、実は批評業界には批評業界の語彙の体系があるのであって、しかもかなり流動的な語彙の体系があるのであって、少しくらいは大目にみてやらないと「読んで面白い文学理論」などは書けないんではないかと思わないでもない。まあ、それとこれとは別の話で、正確な知識なしで適当に色々書いてしまってしかも反省しない風習はなくすべきだと思う。適当に色々書いてしまうこと自体は別に良い。間違えることもある、人間だもの。あとで謝ればいい話だ。
あとこれは完全に印象なのだが、批評家の「失言」を取り上げて叩く際の言葉遣いが、奇妙にネット右翼のそれに似ている気がする。ネット右翼も、思えば「エビデンス」でもって自虐史観を批判するのが好きだ。もちろん正確な知識を根拠に知的活動をするのは非常に大事だけども、それがもし本人の「実存」を発露させるための回路となっているとしたらよくない。なぜならそれは不寛容をしか導かないからだ。ネット右翼的言説が、大塚英志の言うような、「個」と「公」を中間項なしに短絡化する、虎の威を借る性格の表れであるように、学問の堂宇に秘められた(一般人にはアクセス障壁の高い)知識に威を借りて行われる批判は、たとえその知識自体が正しかったとしても、その手段が正しくないということがありうる。我々のような消費者兼ブログ執筆者兼匿名掲示板利用者が一番気をつけねばならんところだろう。我々はお客様ではあっても神様ではない。何かの威を借りるということは、自分が無定見な大衆であることを認めているようなものだ。正しい知識を参照しているのか、正しい知識の威を借りているのか、常に自問しないといけない。例えば昨日はじめて日本にやってきた外国人がいたとして、彼が箸の正しい使い方というものを我々日本人に嬉々として解説しはじめてしかもそれが間違っていたとしよう。それに対して嫌味や罵倒とともに正しい知識を教えるのが、果たして態度として正しいだろうか。むろん正しい知識は教えるべきだが、嫌味も罵倒も必要ないんではなかろうか。