hkmaroのブログ

読書の感想など

現代的ヒューマニズム

現代は新しい中世だといわれることがある。国家にかわる新しい中間団体が角逐する世界は、確かに中世的だ。いわばムラ同士が縄張り争いをしているようなものだ。しかも「大きな物語」なる中心的観念を喪失したため、その争いは全部利己的な動機からしか生まれない。大義がない。自分の身を何か偉大なもののために投げ出したいと思うようなことがない。あったとしても仮のもので、そんなものへの自己犠牲ごっこをしている自分のことが、滑稽に思えないということがない。このニヒリズムは深刻なもので、何かに夢中になったりハマったりすることは、意識的に「夢中になろう、ハマろう」と心に決めない限りありえない。しかしそういう意識があるところでは、人は本当に我を忘れることはない。結局、適当に空気を読んで、適当に楽しくやり過ごすという、これから先の人生ゲームのコースが目に見えている。
ところで空気を読むということはムラ社会的な同調圧力に屈することだと言い換えることができる。そこで「空気なんか読まなくていい」というような無責任なテーゼが生まれることにもなるのであるが、しかし現実に「空気」の蔓延する世の中を生きる我々にとっては、空気を読むことはやはり死活的に重要だ。なぜなら空気以外の選択肢がないからだ。空気を読まない人間が社会的に抹殺されるということがわかっていながら、それでも空気を読まないという人はなかなかいないし、いても実際に社会的に抹殺されるだけである。空気を読むな、などと部下にいう人は、「空気を読むな」という空気を部下に押し付けているだけで、なんら空気から脱したことになっていない。そういうことにしかならないのが、我々の生きる現代の日本だ。
中世から近世にかけての、実際に大小のムラしかなかった時代を生きた人々はどんな風に考えていたのだろうか。中間団体の同調圧力に対してどのように付き合っていたのだろうか。私はモンテーニュのエセーを思い出す。エセーを実際に読むまで、ヒューマニストとして名高いモンテーニュだから、きっと個人の自由だとか、人の精神の多様性などを何よりも重視するのだろうと思っていたし、実際そのような記述もたくさんあるのだが、しかし社会に対して背かないように子供を育てるべきだ、という記述もやはり沢山あって、かなり意外な気持ちがしたものだった。カトリックとプロテスタントの争いでは、両者の間をとりもちながらも、基本的にはカトリック側だっというのも意外だった。ボルドー市長であったり王様の顧問になるよう要請されたりと、モンテーニュはむしろ人並みはずれて「空気の読める」人物であったと言わねばならない。そのような人物が、時に著作の中では「空気批判」のようなことを書いたり、そうかと思えばやっぱり「空気を読むことは大事だ」と説いたりする。
マクロな歴史の流れを見れば、結局みんなで空気を読んでなんとなく生きる、という時代は革命によって終わりを告げられ、国民が主権を握り、それを定めた憲法が書かれ、と、いよいよ空気などよりも立派な、誰の目にもわかる、公平な原理原則が打ち立てられたわけなのだが、我々が生きている時代、社会は、それらの原理原則が空洞化し、再び「空気」の復活した世の中である。ということは同時に、ルネサンス時代の人文主義者たちに学ぶべき余地も再び生まれているのではないかと思う。人文主義者たちが、空気ばかりが蔓延している世の中で、どこに空気を超える原理を見出したのかと言えば、言うまでもなく古典の世界にであった。すなわち、ギリシア・ローマの哲人たちの書いた著作から、自由人の精神を再発見したのであった。ギリシア・ローマの古典に疎い私にはわからないが、おそらく自分ひとりの範囲を超えた、都市国家的なものに自分の命を捧げて、手ずからに武器を取って戦いにでる、例えばソクラテスの姿をプラトンの著作に見、あるいは呪術を排した推論に基づく知恵を武器に議論を戦わせる古代の賢者の姿を思い浮かべ、そこから彼らなりの理想の人間像を作り出したのかもしれない。
ドストエフスキー夏目漱石が、近代的理念と前近代的生活との間で引き裂かれたのだとするならば、我々はもはや近代的理念など微塵もない理念の焦土のような場所で、ムラとムラ同士の抗争を間近に見ながら、自分自身ムラ社会に深くからみとられたままでいながら、そのおかしさを批判するくらいしかできない。だが、そういう道は、中世の人文主義者たちが一度通った道である。我々には先達がいる。もしかしたらモンテーニュプラトンを読んだときよりもずっと身近に感じながら、我々はモンテーニュを読めるかもしれない。それよりも何よりも、私は現代のモンテーニュヒューマニズムの小説として、突然ラノベ話になって恐縮だが、田中ロミオのAURAを挙げたい。最近彼が出した『灼熱の小早川さん』よりも断然良い。なぜなら、AURAでは空気を読むことのくだらなさと、空気を読むことの大切さが、同時に説かれているからである。私は、AURAは岩波文庫に入ってもおかしくないとまで考えているのだ。