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hkmaroのブログ

読書の感想など

ドストエフスキーの人気の理由

なぜ世界文学といったらドストエフスキーなのだろうか。ゲーテではないのか。あるいはダンテではないのか。なぜバルザックセルバンテスを読んでいても人から「偉い」とは思われないのに、ドストエフスキーを読んでいると「偉い」と思われるのか。
最近『罪と罰』と『悪霊』を読んで、その理由のヒントを得たような気がする。その二作を読んだ限りでの所感を書く。
ドストエフスキーは、難しい文学だと思って敬遠している人からは誤解されがちだが、極めて親しみやすい小説を書いた作家だ。貴族や金持ちの話ばかりを書いてるのでもなければ、登場人物たちが難しい話ばかりをするのでもないし、常人には縁遠くて理解できないテーマを扱っているわけでもない。むしろ、貧乏な庶民の生活のほうが多く描かれているくらいだろうし、登場人物は八割がた俗物で色恋沙汰や金が好きだし、よく言われるようなキリスト教的な神の救いについて問答している箇所などごくわずかだ。
だが、それだけが人気の理由なのではない。ドストエフスキーは庶民の感覚とその生活を描いただけではなく、インテリ青年の苦しみをも描いた。普通、歴史に残る長大な世界文学といったら、まずインテリの好みそうな「深い」「難しい」テーマがあり、それを我々後世の大衆読者は、頭を悩ませながら少しずつ読み取らせて頂く、という構図になるものであるが、ドストエフスキーの場合は全く逆で、非常に俗物的な要素が大部分を占めているので、我々大衆にも非常に親しみやすい。それだけでなく、インテリが読んだら読んだで、大変感動するような作りにもなっている。しかも、俗物性とインテリ的高尚さが同居しているので、インテリの大衆へ抱いている失望とか憎しみとかがとてもリアルに描かれている。例えば『罪と罰』は、世間一般では「なぜ人を殺してはいけないのか」を問うた作品だと思われているが、しかし実際読んでみると全然違って「人を殺すのは悪だとわかっているけれど、インテリにはその権利があるはずなのではないか」ということを読者に問う小説である。あるべき社会の理想像をもたずに私利私欲を太らせる俗物を排除して、近代的国家建設の理想を持ちながらも(それゆえにこそ)貧しい暮らしをしている者達へ富を分けるべきだ、という思想がラスコーリニコフにはあるのだが、これはフランス革命の理念とほとんど同じで、フランス革命においては「悪徳老婆」達は次々と断頭台へ送られたのである。にもかかわらず、ロシア社会においてラスコーリニコフは犯罪者である。また、作中でフランス語を操れることが教養ある人の証として誇張気味に語られるのだが、このような近代国家フランスへの劣等感は、後発近代化国にしかあり得ないものであって、特に日本のインテリには非常な親近感を持って読まれたのではないかと思う。『罪と罰』においてはソーニャという登場人物に代表される「生活」「赦し」の観念が重要だが、しかしソーニャの存在に愛による癒しのようなものを感じてしまう日本人読者たちは、まだまだ未開なのである。もちろん未開であることはドストエフスキーの小説を読んで感動するための重要な資質だ。しかも作品全体としては「生活」に帰るべしというテーゼを打ち出しているから、これは何よりも一般大衆の心を慰撫する小説でもある。まったく毒にも薬にもならない「日々真面目にコツコツ働くべし、家族や友達を大切にすべし、善行を行い悪行を慎むべし」というような標語を肯定している小説のようにも読めるところがポイントで、大衆はこれを読んで自らの小規模にしろ暖かな幸福を享受している自分は間違っていないという感動を得るが、しかしこれはインテリにとっては理念に徹底し切れなかったインテリ青年のゆるやかななし崩し的な敗北が描かれているのと同じであり、現に未開な権力の前に屈しているインテリ読者のナイーブな部分を刺激して涙腺を緩めさせるところでもある。
インテリに愛される小説であるから、ドストエフスキーの本は各国のインテリによって文化的に保護され古典として愛玩される一方で、それらは大衆が読んでも大衆なりに感動できる面白い小説なので世間一般からも一定の評価を与えられるし、それだけでなくインテリの与えた権威も付与されているから、ドストエフスキーの小説を読んだことのない人たちまで『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』のことを「偉い」と思うのであろう。
日露戦争で日本が「勝利」したことをもって、日本人がヨーロッパ人に追いつくどころか追い越した証だ、などと言う人がよくいるけれども、これは酷い誤解なのではないかと、ドストエフスキーを読んで思った。ドストエフスキーの描くロシア人自身の考えるロシア人像は、民衆的な生活があるばかりで全く未開であり、フランスやドイツの猿真似ばかりで独自性がなく、流行にすぐながされてはあっという間に忘れる人々、というようなものであるが、このような自国民像を述べる国民を我々日本人は最低一つは知っているはずである。苦しみながら急速な近代化を遂げた民族は日本人だけなのだ、ということは簡単には言えないんじゃないか、と思うようになった。