hkmaroのブログ

読書の感想など

近代的制度と近代的思惟

昨日は午前中には秋津へちょっとした用事で出かけ、午後からは散歩をした。散歩途上で古本屋を見かけたので店の前の100円コーナーを見ていると、柄谷行人の『シンポジウム』という本があったので中をみてみると、「<場所>をめぐって」「<分裂病>をめぐって」「<数学の思考>をめぐって」と題された会談が収束されていて、正直このタイトルだけでお腹いっぱいになる、完全に時代を経て無価値になった本という感じだったのだが、最後に入っている「<近代の超克>について」という会談だけ未だ無価値ではなさそうだと思い買った。
近代的思惟というものについて考えるにあたっては、殺人犯の量刑を例にとるのが良いのではないかと思う。例えばある人が殺されたとして、その遺族は殺人犯のことを殺したいくらいなのだが、前近代的な思惟のもとでは、その殺人犯のことを個人的に知っている例えば地域社会の知人とか、殺人犯の家族などは、普段は人柄もいい人であって、殺人なんか犯す筈のない人だし、よっぽどの理由があったのだろうと思うから、今回はしばらく様子をみてみることにして、反省をして罪をつぐなう気があるようだったら、社会復帰させてもいいんじゃないか、という意見が当然出るように思うが、このように加害者側と被害者側では真っ向から意見が対立するのが当然だろうし、しかも前近代的な枠組のもとでは誰がどの程度悪いのかということを決める枠組があまりはっきりしていないだろうし、もし成文法やその解釈学がはっきりしていても、個別の事例の特殊性や裁判官あるいは裁判官以外の専門家の裁量によって酷く場当たり的な判断が下されてしまうのではないかと思う(ちなみに日本の裁判は難しい裁判だとこの「個別具体性」とか「専門家の裁量」とか「公序良俗」とか「公共の福祉」とか「社会通念」などが持ち出されることが非常に多いらしく、私の学生時代には特に憲法の先生方は嘆いておられた)。それに対して近代的思惟とは、これらを個別具体性などの曖昧な領域になるべく落としこまないようにし、どんな犯罪者もなるべく同じ条件で公平に量刑を下されるべし、という理念を持つものであると思う。つまり加害者側と被害者側の利益調整のシステム化である。近代化すればするほど裁判官の仕事はマニュアル化されるはずであり、自分の判断が少なくなるので仕事が楽になるのか、あるいはマニュアル書が分厚くなって引くのが苦になるのかわからないが、とりあえず公平にはなるはずである。
日本は仕組みや制度としては紛れも無く近代化をしているのであるが、この公平なはずの制度を有名無実化しようとしているのが売国政治家とか売国官僚なのであろう。公益を私物化しようとする発想は前近代的思惟である。近代主義者が、未だ日本は近代国家にあらず、などという場合、日本の制度ではなくてむしろ日本人の前近代的思惟をこそ問題にしているのだろう。してみれば近代的思惟とは公平性を重視する発想であり、フェアさを大事にする発想であるから、これはほとんどリベラリズムだし、個人の私的な利益の前提として国家の制度が担保されていることを要求するからナショナリズムだし、権力者が制度を私的に利用することを許さないのでデモクラティズムでもある。また、近代的思惟とは一度合意に至った決まりごとを守ることを要求するので、契約重視の発想でもある。この契約を大事にする考え方は、商取引の領域でも重要になるだろう。例えば大企業の客をもつ中小企業のセールスマンが、客の立場を利用した納品後の理不尽な値引きなどを要求されても、近代的思惟の正当性が社会の中で確立していれば、「約款にしかじかと書いてあるのでそれはできません」ときっぱり断れるはずだし、たとえそこで断って客に逃げられたとしても、むしろそのような理不尽な要求をした客の噂こそが醜聞となって、客の属する大企業のほうが信頼の破壊という不利益を被るであろう。
このように近代的思惟の問題を考えると我々の日常生活と関係がないどころか非常に関係のあることなのだとわかってくる。いや全然関係ねーし、と直感的に否定する態度がすでに前近代的である。