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hkmaroのブログ

読書の感想など

日本の歴史と民族のアイデンティティ

通勤途上で早稲田の虹書店の軒先の50円単行本ワゴンを見ていたら、憂国呆談とか大塚英志の本とか柄谷行人の本とかが置いてったので、オッと思い、『新現実』の二号と、『戦後民主主義リハビリテーション』を買った。105円。大塚英志の本は、最近故あって数冊読んでいるところであった。新現実は天皇制特集の号であり、そのころ自称天皇主義者であった宮台と大塚が対談していた。天皇制は立憲君主として天皇を持ち出すことによって近代化をしようという試みであったのだが、天皇のもつ前近代性が逆に日本人の近代化を妨げている、という点が問題とされていたのだが、じゃあ天皇なんか持ち出さずにもっと別のものを日本人の象徴とすればいいはずなんだけど、しかし天皇の代わりとなるようなものが今のところどこにもなく難しいのだ、というのが宮台の説だった。確かに日本人は日本人のアイデンティティを担保する根拠に乏しい。だから日本人は日本人論が好きなのだろう。もしかしたらどこの国の人でも自国民のことを扱った言説には興味があるのかもしれないが、しかし特に我々日本人は日本人とは何かを端的に語れるストーリーを持っていない。よく言われることとしては、アメリカ人には建国の理念や憲法があり、ヨーロッパ人たちには伝統がある。いずれにせよ国民が自国民をアイデンティファイする根拠とは、歴史的な何かである。じゃあ日本人は歴史を軽視する国民なのだろうか。確かに自分自身を振り返ってみても、歴史などとはまず無縁の人生を送ってきたし、これからも送るであろう。だが、私が日本の歴史のことを好きになれないのは、日本史が過度に人を語る歴史だからである。歴史好きの人間は、たいてい坂本竜馬がどうとか、勝海舟がどうとか、最近では大杉栄がどうとか言っていて、つまり歴史上の人物をテレビタレントか何かでもあがめるかのように崇拝するのであるが、その態度が気に食わない。つまり、「生き様」がすなわち日本史だという先入観が私の中にあって、そのような通俗的で野蛮な歴史がなにほどのものであろうかという軽蔑が私の意識にこびりついているし、実際歴史オタクは通俗的で野蛮である。かといって日本人はこのままずっとラノベを読んだり韓流ドラマにハマったり小沢を批判したりして、確固たる国民の中心的観念を持たずに希薄に生きていくのであろうかと想像すると、非常に不毛な国民だなという気もする。つまり、歴史的な何かはやっぱりあったほうがいいのではないかとも思うことがある。だがそれがせいぜい坂本竜馬の生き様どまりであることが腹立たしいのだ。坂本竜馬の生き様など、私にとってはラノベにも劣る。
だが、よく考えてみれば国民が自国民としてのアイデンティティを求めるのは近代国家を設立する必要からくることであり、その歴史の起源というのはすなわち近代国家設立の時にあるわけだから、フランス人がラ・マルセイエーズを国歌としているように、我々日本人も明治維新のときの物語を国家の物語とすればよいのではなかろうか。すぐに想定される問題点としては、日本人の明治期の近代化は、内発的ではなかったから国家のアイデンティティにはなりえないかもしれないという点で、それは確かにそうなのだが、この問題点を深刻にとらえて、未だ日本は近代化などしたことは一度もない、と言い切ってしまっては、日本人を束ねる物語はどこにも存在しないということになってしまう。なぜなら内発的に近代化していないがゆえに、内発性の象徴的物語がないからである。その点、植民地支配から民族自決の理念とともに独立していった諸国家は、むしろ日本よりうまく近代化するのかも知れぬ。
ふと今思いついたのだけれども、貴族の圧政に耐えかねたフランス市民が武器を取って立ち上がったように、あるいは植民地支配を受けていたアジア・アフリカ・南米の諸国民が立ち上がったように、日本人も圧政を跳ね除けて立ち上がったときの物語こそが自国民の物語になるのではないだろうか。そうすると当然日本人が世界に誇れるのは、アジアの小国でありながら戦後の貧乏な時代を生き抜いて世界第二位の経済大国になりあがったのだという経済の物語であり、これは政治的にはともかく経済的にはアメリカ以外の諸国家を蹴散らしたのだという偉大な物語として、(多分)小学生の頃から社会科の授業で教えられる知識である。が、自分が小学生だった頃のことを思い出しても、ああ、やっぱりアメリカには勝てないんだな、まあそういうもんだよな、という諦念があったように思う。やはりアメリカの存在がネックとなる。
こういう目線でいろいろ考えていると、日本のオタク文化は世界に誇れる云々と言っているネット右翼とか、日本の憲法九条は世界に誇れる云々と言っている戦後民主主義者は、いずれもいわば「建国の物語」を求めている人々であり、その意味では同類なのではないかとも思える。しかし日本が未だ近代国家として内発性とともに成立していないのであれば、これまでの歴史の中に建国の物語を見出そうとしてもそれは捏造に近く、やはりこれからの歴史で日本人が作っていかなければならないのではなかろうか。同時に、現時点で我々日本人は近代人ではなく、かつ前近代的な村人たちでもないという宙にういたモラトリアム的な状態にあるがゆえに、能天気に経済にうつつを抜かして高度消費社会を楽しく生きていられるのかも知れない。この猶予期間が終わったときこそ、日本人の建国の物語が始まるのかもしれない。