hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

昼はスパイシーから揚げ丼を食い、夜は松屋のネギの牛丼を食った。健康からは程遠い食生活をしている。人間は食べることによって生きながらえる。しかし、生きるために食べているのだろうか。食べるために生きているような側面はないか。生きていなければ食べられない。これは食べていなければ生きられないのと同じことではなかろうか。なぜ食べていなければ死ぬのだろうか。栄養が足りなくなるからだが、では食べなくとも栄養さえ摂取していれば生きられるのであろうか。食材ではなく栄養のみを摂取して生きることが可能になったとしたら、食べることは、その他の人生の楽しみ一般と同じ地位に引き下げられてしまうであろうか。そういう予感もする一方で、しかし、食べること自体に人の命の目的があるようにも感じる。人間が生きているその目的因が食欲なのではないかと感じられる。生きるために服を着たり家を構えるのではなく、むしろ食べるためにそれをするのではないか。健康を維持しているのは美味しく食べるためなのではないか。立派に家を維持するのは安心して食べるためなのではないか。ぐっすりと眠るのはまた明日食べるためなのではないか。家族を増やしたり、仲間で集まったりするのは、みんなで食べるためなのではないか。もちろん食事以外の目的因がないとは言えない。感官であらゆることを楽しむことは、やはり食事と同じような目的因として機能していると言えるだろう。だが、例えば原始的な状態において、見ることをやめてもそれが即座に死を意味しないのとは違い、食事をやめることは即座に死を意味する。生きていることは、科学的な常識に基づいて判断すれば、食べることによって成立している状態なのだが、しかし人間の認識する意味論的な枠組においては、それが逆転することもありうる。上述したように生存自体に食事を前提としなくなるような技術が発明されたとして、その場合には人の健康の概念も住居の概念も変わるだろうし、それよりも人と人がどのように会って話を楽しむかの形態も根本的に変わるであろう。我々が考えている以上に高い割合で、会話というものが存在しなくなるだろう。それは会食することがなくなるからである。同様に、今日の私のように丸一日一人で飯を済ませてしまう者の習慣も変わるであろう。一人で飯を食い、胃を働かせるかわりにしばらく頭と体を休ませる二十分の時間が、メディテーションの原始的な形態だからである。

江藤淳の『成熟と喪失』を読む。こんなものを昔の文学青年はありがたがっていたのかと思うと、日本の文学青年の頭は昔から大したことなかったのだろうとしか思えない。恣意的な飛躍に満ちた、正直読むのが苦痛な文章。論理のかけらもなく、直感的な断定で作家の「無意識の願望」が「暴かれる」。これが伝統的な批評だというのなら、宇野常寛の批評はこの上なく保守的な批評である。文体だけでなく、「父」だの「母」だのという、ろくな定義もされていない批評用語を用いる、(暗黙裡にフェミニズムによりかかった)「分析」は、宇野の批評にしっかりと受け継がれているし、結局江藤淳が『成熟と喪失』において言っているのは後に宇野が「母性のディストピア」と名づけるものの原材料のようなものである。特に目を覆いたくなったのは以下の部分。

近代の政治思想が実現すべき理想として来たのは、近代以前の「被治者」を一様に普遍的に「治者」にひきあげようとすることである。しかし、この過程で現実におこったのは、いわば、人間を「往還から引っ込んだところに丘や藪を背にして、いかにも風当たりの心配なんかなさそうな、おだやかな様子で」発っている「藁葺の屋根」の下から引き出して、「隠れ場所というものがない」禿山の上に「全身をさらす」のに等しいことであった。これが政治思想だけによって実現された変化だとはいえない。その背景には政治思想の対立を超えた産業社会の進展があり、その結果としてもたらされた農耕文化の崩壊がある。このことは今日漠然と意識されはじめているが、すべての作家がその文学的な意味を明晰に自覚しているとはかぎらない。新事態をそのままに認めることは、どんな場合にも勇気を必要とするからである。

「農耕文化の崩壊」などとのたまう江藤自身は畑の土に触れたことも無いようなエリート階層の出身であることは言うまでないのだが、だからといってエリートが農耕文化を云々するなとまでは私は言わない。しかし、せめて「農耕文化」において農耕に携わらなかったにも関わらず一番旨い汁をすすっていた貴族階級のことも常に同時に述べろと思う。それでなくともせめて「農耕文化」の定義くらいはっきりしてから喋れよと思う。これは学生でもきちんと学校で教えこまれることである。貴族階級出身の人間が、「産業社会の進展により農耕文化が崩壊した……」などと一種の厳粛さとともに語っているのをみると、現代の「農耕民」である大衆消費者層・負け組ワープア層当事者としては腹が立つとともに、同時に語り手の「恥ずかしい父」としての自意識の欠如に途方もない滑稽さを見て呆れずにはおれない。文芸批評などというものは廃れて当然だ。文学も同じく廃れて当然だ。文学が不良債権だという言葉はあらゆる意味で無限に正しいと思ったが、それを言った大塚英志はある時期からまるっきり江藤の批評スタイルを受け継いでいる。しかし大塚英志に関しては江藤の影響を受ける以前がむしろゴミであり、『サブカルチャー文学論』などはすこぶる面白いから不思議だ。実証性の欠如という意味では一貫しているものの。