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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

いちいち人の悪いところを数え上げて自分が正しいことを確認しようとするのはバカらしい。どうやっても人間は自己正当化をするものなのだから、無根拠に自分は正しいと考えておくのが無駄な労力を省くことになるから良い。しかし、自分が正しいと無根拠に思い込んでいる者にからまれないよういかに心構えしておくかは常日頃考えておくべきであろう。

無根拠に自分が正しいと思い込んでいる者に対して話をしようとすることほど、徒労感を得させられるものはない。まず人の話を聞かない。聞いても感情的に否定するだけで、要するに頭ごなしである。その頭ごなしに人の話を否定する当人自身は、自分の意見こそが頭ごなしに否定されていると感じているのだから文字通り話にならない。しかも自分のことを無根拠に正しいと思い込んでいるので、他人の事情というものも忖度しない。他人の事情というものがあることなど想像の埒外である。まあ、人間誰でも大なり小なりそういうものなのだが、しかし人間集団の内部で「共通の敵」としてコードネームなどが付与されてしまうタイプの人間に共通しているのは、他人に対して自分と全く同じ条件を期待する点であり、経済学における合理的期待仮説のような不合理な期待を他人に抱く点である。また、彼のセカイには他人の事情など存在し得ないので、どこへ行ってもお客様である。というか、どこへいっても神様である。クレーマーよろしく、他人が召使いのようにきめ細やかな気遣いを自分のためにしてくれることを当然のこととみなしていて、それに対する疑問など意識に上らないどころか無意識下にも存在しない。

そういうことを、昨日の深夜にかかってきた電話をとって悟った。このような特徴はクソな上司とか、サークル内でみんなから陰口を叩かれていたウザい先輩とか、親族一同から蔑視されているにも関わらずその視線に気付かず恬然としている実の母親であるとか、私が今までの人生で出会ったある種の人々みんなに共通する性格だとようやくわかった。この種の人々に絡まれないようにするための一番の知恵は、自分からはこのような人々に話しかけないようにすることであるとともに、この神様たちは生贄をもとめてこちらのほうへすりよってくることも往々にしてこれあるので、なるべく距離を遠く置いておくことである。このような当たり前のことが、人間社会で生きる人間たちにはなかなかできない。人と距離を置く、ということは非常に難しいことなのである。

実践的な問題として、寛容というものについて考えさせられた。が、寛容な態度は、人が互いに寛容でありうる場合にのみ成り立つはずだ。寛容になりえない者を相手にしたら、自分のほうも最後まで寛容でいることは不可能である。戦う民主主義という言葉を思い出すが、共同体のルールを守れない者が共同体の運営に害を与え始めれば最終的には共同体から追放されることはこれは当たり前のことである。会社では空気の読めない人が真っ先にリストラされ、サークルではウザイ人が飲み会召集メーリスから外され、家庭ではキチガイが真っ先に家庭不和の引き金を弾く。キチガイからは、家庭のほうが去っていくのである。