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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

昨日は友人数名に声をかけて映画を見に行った。この映画鑑賞会は健全な大人の社交の場というか出会いの場というか、そういう性質を持つものであり、いわば映画は交際のネタみたいのものに過ぎず、つまり真剣に映画をみようという意図を持たない。何を観たのかと言うと『世界侵略』という映画だ。映画の感想については、まさに期待どおりの映画であった、としか言いようがない。ヘビメタみたいな映画である。気散じと変性意識形成という映画の二大効能にまったく忠実な映画。その意味では映画というメディアの特性に自覚的な優秀な映画であった。

文学的表現や哲学用語の有用性について。例えば「人生」「精神」「存在」「生命」このような言葉は、間違いなく有用である。これらの言葉によってしか表現できない相が確実にある。しかし学問的な厳密性によってこれらの言葉を解体してみると、そこには自家撞着が数多くあり、実際は何も意味していない言葉すらある。「一度きりの人生なんだから、好きなことを満足するまでやってみたい」このような言葉遣いですら実際は何も意味していない。「人生」なるものを科学的に定義しようとしても不可能であるか、もしくは可能だとしても非常に膨大な文言が必要になるだろう。我々一般人がそれを意識してそれでもあえて「人生」なる言葉を使っているだろうか。明らかに否である。「人生」という言葉は何ら実質を含意していない。人生は単なる生命活動でもないだろうし、単なる社会活動でもないだろうし、(もしかしたらこれが一番近いかもしれないが)単なる内面的活動でもないだろう。あれでもない、これでもない、「人生は人生だ」としか言いようがない。しかし、そんなものは何も意味していないのと同じだ。しかし、何も意味していないはずのものに人間は深遠な何かを感じ取る。言ってしまえばこういう抽象的な言葉はまやかしの言葉である。我々人間は、言葉に気をつけて生きようとすればするほど、唯名論者になり、エビデンス厨にならざるをえない。それなのに唯名論者やエビデンス厨が完全に正しいと思えることが今までに一度でもあったであろうか。もし完全に正しいと思ってしまったら、その時点で人は別のまやかしに染まっている。人間はまやかしの言葉にすがってしか生きられない。だが、まやかしの言葉にしがみついているからこそ得られる心の慰みもあるからには、それが人間の本性なのであろう。「女の子と一回も付き合ったことのない俺の人生って一体なんなんだろう……」このような悩み・問いに対して、君の言う人生とは実際は代謝活動の持続であって、まあ本当はもっと色々あるんだけどここでは長くなるから代謝活動だということにしておくけど、その代謝活動が終わるまで一度も交尾しない個体がいるということも生物界では全く珍しくもなんともない淘汰現象であるから、気にするのはおかしいよ。だけどそうした悩みを持つ個体が存在するのも「動物界後生動物亜界脊索動物門羊膜亜門哺乳綱真獣亜綱正獣下綱霊長目真猿亜目狭鼻猿下目ヒト上科ヒト科ヒト下科ホモ属サピエンス種サピエンス亜種」の特徴だよね、などと答えても何ら悩みを解決したことにはならないどころか、返答にすらなっていない。それよりむしろ「ソープへ行け」などと返事したほうが外見上悩みに答えていないようでありながら最も効果的に悩みを解決しうる方法を提案しているし、問いに対して期待されていた類の答えでもある。つまり、適切にコミュニケーションをしている。ソープへ行けば悩みが解決し、人生の新しい幸福な局面が迎えられる、という期待は、悩みを持つ若者の頭をすっきりとさせるだろう。それどころかソープへ行った後に実際に彼の目から見える世界は全く違ったものになっているかもしれない。どこからともなく湧いてくる自信が、全身に、あるいは股間に、充足していくのを感じるかもしれない。これを踏まえると、学問的な哲学と通俗人生哲学は峻別できない。どちらもまやかしの言葉にのっとって営まれるからだ。それらを区別するのは先行研究への配慮でしかない。つまり、哲学史を学ぶ人はどんな人でも哲学者であり、哲学史を軽視する人はどんなに自分が哲学者だと思っていても一ミリも哲学者ではありえない。

言葉の有用性は、それが相互に窓を持たないはずのモナド間の、窓になりうるところにある。「いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ」という言葉に人は涙する。言葉は感情を動かす。こう言ってよければ、ヒトの脳に作用する。もちろんやはりモナド自身は窓を持たない。窓のほうからモナドへ寄り添ってくるのである。窓はそれ自体で一つの項である。だからあるモナドの内面が直接的に他方のモナドに伝わるわけではない。

人間は生まれてから死ぬまで、死という病を患っているようなものであると同時に、この限られた期間に夢を見ているようなものだ。古い時代の人々のほうがこのことを明敏に感じていたのだろう。だからこそ、賢い人ほど夢ではない実体entityとしての神や、夢ではない確固たる真理としてのダルマを求めたのだろう。しかし神的存在が搾取のための道具として用いられることが明らかになった今、我々が求めるべき実体は何なのだろうか。おそらく答えは自明で、それは人間でしかない。人間のために生きることが、現代の人間の最も確固とした生き方だ。問題は人間が果たして本当に実体なのかどうかという点にある。私自身の内に、確固たる実体が含まれているのかどうか。そしてその実体は私が滅んだ後も不滅なのかどうか。このことは、何を実体として置くかにかかっている。ある精神を実体として置くのか。それとも遺伝子を実体として置くのか。後者はあまりにも馬鹿げていると私には思える。精神が伝播していくことこそが、人間にとっての実体なのだろうが、しかしその精神も簡単に滅びうることを考えれば、人間にとっての実体など本当は存在しない。そのようなつらい生き方をせねばならないのが人間だ。自分の滅亡を確実なこととして予測しながら、人倫や社会というそれ自体儚いもののために尽くして生きるほかないのが人間なのではないか。