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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

昨日は今日迄親交の続いている希有な友人達に集まってもらって私と誕生日が丁度一年違いのN君との合同誕生日会をした。祝ってもらった。プレゼントやケーキももらった。たいそう嬉しかった。牛角で焼き肉を食い、プレゼントにハンコとラノベとSF小説をもらった。ハンコは先輩からもらった。自分がやっている同人サークルの名が入った角判。非常に実用的だ。ラノベは後輩から。「どう考えても売れなさそうなラノベ」を五冊もらい、それをN君とじゃんけんで山分けした(ゲットしたのは『この部室は帰宅しない部が占拠しました。』と『逃走少女と契約しました。猫だけど。』)。SF小説はN君から読み終わったというので頂いた。こちらはN君に何のプレゼントも用意しておらず、申し訳ない気持ちになった。ありがとうございました。

もう二十八歳になったので、遍歴時代を終わりにしなくてはならない。遍歴というほどの遍歴は経験していないが、何か一つの目標に人生を捧げなければならん。飯の種も考えなくてはならん。人生の目標と仕事とが一致している人にならなくてはいかん。いかに高収入でも仕事と人生の目標が乖離していては、時間をどぶに捨てているのと同じだ。自分自身に関して言えば、今の仕事は低収入かつ時間をとられるので、尚一層たちが悪い。遍歴時代の終わりとはすなわち悟りを固定化することを意味するだろう。つまり認識の刷新を止めることを意味する。認識の固定化には何が必要かというと、共時的な認識の断面図を描くことが必要だ。人生における問題という問題に、現在の解釈を示しておいて、そこで留めておくことが、そこから先の人生を一本にしぼるためには必要だ。なぜ人生を一本にしぼる必要があるのかというと、十全な行為を全うするためだ。これは社会的分業があまねく広まった現代において誰もが小さな領域の専門家にならなくては生計をたてられぬ、という話とはまったく違う。単純に効率の問題だ。

こうしたことを考えていると、受験生時代のことを思い出す。受験参考書の中にはメタ受験参考書とでもいうべき勉強法指南本があって、受験前一年間のどの時期にはどの参考書をやれとか、どの模試を受けろとか、センター対策はいつ、私大対策はいつ、どのくらいの労力を傾けるべき、などの実用的な情報が載っているのであるが、思うに思想や哲学や文学という「役に立たない」ジャンルの本を読んだりして人文的な教養を身につけるのは、この勉強法指南本を読んで自己の勉強法を確立する行為に似ている。勉強法指南本は、受験勉強期間中折にふれて参照すべきでもあるのだが、人生における座右の書が哲学や文学の本であることが多いのも似たようなことだ。勉強法指南本は受験において完全に実用的な本だが、人生においてそれと同じような役割を果たしている哲学や文学の本も、やはり完全に実用的な本なのではないだろうか。むしろあまりに実用的過ぎて、高度にタコツボ化した社会的分業体制下においては、個別のタコツボ内で十全に実用性を発揮できず、非実用的だと見なされているだけなのかもしれない。金融取引を仕事にしている人が、料理の本をいくら読んでもほとんど売上に貢献しないのと同様だ。宗教の教典や教義が、完全に信者達の実生活を規定して実用性を発揮していることを考えれば、この仮説を簡単に間違いだとは言えないだろうと思う。

それでは残りの人生を、読書を半ば辞めた行為者として何に傾けるのか。これは非常に難しい問題なので、高校数学的な思考法でもって考えよう。つまり私の人生の目標をxと措く。私はもっぱらxを人生の目標として生きる。ゆえに、x以外のあらゆるものごとは、xに関係する限りにおいてのみ私の関心の対象となる。たとえばxが全く非政治的な何かだったとすれば、私は政治について完全に無関心でいるべきである。xが政治的な事情によって左右されてしまうような何かであったとすれば、私は政治に関心を払うべきである。xは人生の目標であるが、人生の目標は人生をよりよくするためにあるのではない。結果的に目標を達成することによって充実した人生を得ることはできるかもしれないが、目標のためにする行為は手段にすぎない。人生の目標は、人生の外側にあるべきである。人生が自己目的化している人もいるが、それは単なる快楽主義者であり動物である。ここで人生の定義が問題になるが、人生とは、つまるところそのひと個人の経験の総体そのものだ。人生の外側にあるという、人生の目標の性質からすれば、xは私個人の経験を超えたところになければならない。私が経験できないところに効果を及ぼすのが、私の行為でなければならない。ということは、その対象は神でも精霊でもよい。しかし神や精霊という神秘的な存在は、その存在をベリファイできない。もちろんベリファイできなさで言えば、私が死んだあともこの世界は存在しているのかという問題も主観的には永遠にベリファイできない問題なのだが、死んだ後の世界に目標を設定するほうが、見込みとしてはより効果を期待できる。

では私が死んだ後の世界に私は何を残しうるのであろうか。思えば私のこれまでの人生は失敗でできあがっているような酷い失敗作だったのだが、その失敗を分析することによって後の世の人の失敗を軽減することができるかもしれない。または、どうしても失敗しかできないような人のために、無能な人間はどうやって生きていけばいいのか、どこから幸福を感じ取ればいいのかを、一つの経験談として多少なりとも教えることができるかもしれない。ということは、私は失敗談を語り、それを世にひろく聞いてもらう必要があるだろう。まずは失敗談をどのように語るのか研究しなくてはならぬ。しかしそれによって生計を立てる必要もあるからには、単純素朴に何かを語るやり方ではなくなるだろう。それができるのは著名人だけだ。ゆえに例えば小売業によって失敗を語る、というような外見上極めて奇異な結果になるかも知れん。