hkmaroのブログ

読書の感想など

おっさんになってもオタクを続けることについて

オッサンになってもオタクでいる、ということはかなりつらいことだと思う。まず、オタクの大好きな漫画やアニメや特撮やゲームやなんかは、だいたい十代二十代の若者が主人公であり、オッサンは自分のオッサンじみた存在と空想世界の乖離に苦しまなければならないだろう。今現在まさにオッサン化が年々進行している私自身、オタクでいることは非常につらい。二十代前半の天才物理学者とか、現役女子大生の社長、とかいう美女がラノベに登場してくると、なんだかなあ、という気持ちになる。十代の高校生とかがそれを読んでも、空想の世界とは知りつつも、二十代を迎えた人たちがどんな人たちなのか、ということを現実世界でもよく知らないから、純粋に想像的なものとしてその設定を受け入れられることと思う。しかし二十代を通過したオッサンは二十代の人間がいかに卑小で下っ端でひよっこであるか、ということをよく知っている。二十代で社会的な権威を身にまとうということはまずありえないということがわかってしまう(役人か銀行員ででもない限り)。

また、それとは別の問題として、結婚したり子供ができたり家を買ったりというイベントがオッサンには迫ってくるし、よしモテに縁がまったくなく独身であったとしても親の面倒とか不動産の管理とか、それでなくても仕事の上でも管理する側にポジションチェンジしていって、色んな大人の事情がのしかかってくる。しかも病気になったり、死んだりする。寿命が迫ってくる。それなのにラノベだSFだミステリだという空想世界に没頭することが果たしてできるのか。まあ、できない人がオタクでなくなっていって、なんかそこいらへんにいる普通のオッサンになっていくんだろうと思うのだけど、しかしオッサンになっても旺盛にオタクでいる人もやっぱりいる。これは昔から私にとって不思議であった。例えばミステリ読者なんてのはオッサンになってもおさかんなオタクの最たるものであり、自分の死、というものが迫ってきているのに、死をエンタメとして楽しむことができるのだ。

しかしだからといって、死をエンタメとして楽しむのが一般的でないとは思わない。そうしたねじれた状況が可能になっているのは、現代社会において人間の人生の楽しみの層と生存の層がくっきり区別されて管理されているからだと思う。人生の節目の大イベント、例えば結婚やら出産やら葬式やらは、それはそれでしっかりと押さえて、それに向けて抜け目なく貯金などもしつつ、それだけでは人生味気ないので行楽や娯楽のための金もちゃんと自分の欲望や時間と相談して捻出してエンタメを楽しむ、という態度が一般化している。いかにオタクが破天荒に趣味に浪費しているように見えても、それでいながら生活できて(しかも結婚できて)いる時点でこの管理の様式から抜け出せているわけではない。こういう分裂は昔から存在したのだろうか。非常に不思議だ。昔の生活というものを想像してみるに、オッサン世代の楽しみとは、昼間は仕事の上で或る程度の技術を習得し、あるいは或る程度の地位を獲得し、仕事で充実感を得ていたであろうし、夜家に帰ったら嫁や子供がいて、特に子供の成長をみたり子供と遊んだりするのが楽しかったのだろうと思う。また昔の人は職業や身分や家族などが渾然一体となっていて、仕事は親から子供へと受け継がれていくものであったろうから、多くの人にとって仕事の充実感と子供の成長をみる楽しみはほとんど分離不可能なものだったかもしれない。つまり、昔は仕事と家族の外に娯楽というものがほとんどなかったのではないだろうか。

そうすると、オッサンでありながらオタクであることの苦しみから逃れようとすれば、結局エンタメと生活、という二つの層をくっきり分離するか、それともエンタメはほとんどあきらめて生活に楽しみを見出すか、という二択になるように思われる。二択とは言い条、これらは二つとも「生活が第一」な人生への態度であって、これに私は非常な抵抗感を覚える。人には身代をつぶしてでものめりこむ何かがあって、それが人間に特殊な人間性の一つだと思うからだ。生活をないがしろにしてでものめりこむということは、むしろその何かがそれ自体で生活と同じようなものだから可能になる。マンガがなければ生きていけない、などと普段口にしている人でも本気で生活費がやばくなったらマンガに使う金を減らすかもしれない。だが本当にマンガで生きている人は、最初から生活費を削ってマンガを読んでいるのではなかろうか。例えば文学は普通生きる意味とか世の中に対する問題意識とかを問うものだと思われているわけだが、これは文学が生活をも包摂したある全体的な対象を表現すべきものである、という意識に基づいていると思われる。だから文士は文士自身の生活が波乱に満ちていて人生とは何かを問うような生き方をしていなければかっこ悪いのだろうが、それはさておいても、こういう地点においてこそ人間がオタクであることの純粋な意味が表れうると思う。今日のメシと引き換えてもマンガを買うような生き方をしているオタクは、彼自身の精神、霊魂、存在、そういったあの世的なものに賭けてマンガを読んでいるのだと思わざるを得ない。単に蒙昧で金の価値が分からないから目先の楽しみに心奪われてマンガを買っているという面も確かにあろうが、それだけではないと思う。

そして、そういう本気度の高いマンガの買い方をしているオタクは、尚一層空想世界と現実存在の乖離に苦しむだろう。マンガを楽しむという行為と、人生を安全に生きるという行為の間に区別を設けなければ、段々苦しくなっていくのが当然だ。しかしこの二つを区別さえしなければ、マンガは今頃本当の意味で芸術としての地位を手に入れていたかもしれない。十代の高校生しか主人公として登場しなかったり、男と女が登場したら恋愛せずにはいなかったり、バカなサラリーマンにも読めるエロ・グルメ・博打といった低俗な内容のマンガが「オトナ向け」などとされる狂った状況が常態化したりはしなかっただろう。マンガがジャンクフードであるべき、というマンガ家自身ですら盲目的に信じ込んでいる現代の迷信は、マンガを文化産業化してそこから投機的な利益を得ようとするゴロツキどもの思惑にのせられた非近代的な退化した思考である。マンガを楽しむな、とは決して言わないが、マンガ=人生には楽しみと同時に苦しみもある。苦しくもあるけれど楽しくもあるのが生活であり人生なんだという、相田みつを的人生論こそ、エンタメ好きの大衆のスローガンだったはずだが。

<追記>

しかし、楽しみとしてのオタク趣味が高じたところには、老人が盆栽や陶器の鑑賞を楽しむような境地がありうるかもしれない。オタクの好きな物語には類型があって、それをどのように外さず踏襲しているかとか、逆にどの点においては敢えて外しているのかなどが、アニメやマンガの評論家的鑑賞態度になってゆくのかもしれない。というか、既に社会的地位の高いオタクはこうした消費の仕方をしているような気がする。それらの「評論」が全く恣意的で的外れなのが滑稽なだけで、これからそれが洗練されていけば、アニメやマンガは一つの壷のようなものになるかもしれない。まあ、ソフト産業なので全く壷とおなじというわけにはいかないかもしれないけれども。どっちにしろ壷は人生について語りかけはしない。