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hkmaroのブログ

読書の感想など

『マリみて』と『豊穣の海』と見る事と性

マリみて』の一巻を何年かぶりに再読した。やはりよくできた小説だ。ライトな文体でありながら中間小説的=少女マンガ的領域をどストレートについてくる快作だ。この小説が内面というものを非常に重視して擁護している小説であることは、祐巳と祥子の間の「賭け」においても明らかだ。二人は、はたから見ればどうみても合理的な姉妹の契りを、自分の内面の問題を重要視するあまり互いに一度ずつ断る。最初は祐巳がファンのプライドにかけて、次は祥子が柏木問題を内面的に解決するために、二人は非合理的な選択をするのだ。一巻でのこの内面擁護の姿勢は巻を重ねていくごとにバロック的に複雑化し、むしろ初期のころからのファンを退屈させるようになってしまう。初期においては読者は祐巳や祥子の内面に入り込んでその疎外されたもの同士の癒し合いを理解することができたのだが、「レイニーブルー」を一つの契機として祐巳にも祥子にも読者にとってすら登場人物たちの内面は理解しがたくなり始め(とはいえ「レイニーブルー」と「パラソルをさして」が文学史に残る名作であることはこの世の誰にも疑い得ないのだが)、祐巳の妹問題が出来する頃には妹候補たちの内面は既に多くの読者にとってほぼ理解不可能になってしまった。このバロキズム自体は本来評価されるべき快挙なのだが、現実世界へのミメーシスを失ったことがこの理解されなさの原因だったのだろう。

マリみて』の最重要登場人物の一人に武嶋蔦子というキャラクターがいる。彼女はこの作品において典型的な見る人であり、その象徴としてカメラを常に持ち歩いている。彼女は自分自身は誰とも姉妹の契りを交わさずに、周囲で活躍する美しい姉妹たちを写真に収める。この構図は『豊穣の海』に出てくる本多と二十歳で死ぬ天才たちとの関係に非常によく似ている。本多もやはり見る人であり、もっと言えば閃光のように短く輝いて死んでいく美しい天才たちを見ながら、自らは決して天才たちと同じ舞台に立とうとはしなかった。武嶋蔦子祐巳に、いつの時代の人なんだ、と思われるほど『マリみて』の世界においてはまるで外部から来た人であるかのようだ。これは「作者(や読者)の目が蔦子に乗り移っているというメタフィクション的構造なのだ」とかいう皮相な話では全くない。そうではなくて、見るということの本質的な価値が本多や蔦子というキャラクターに託されて表れているのである。

見ることは認識することである。視覚と聴覚の違いは、それらが純粋に抽象的な記号というものを許容できるかどうかである。聴覚は純粋に記号的な音を表現できない。より正確に言うならば、純粋に記号的な音というものを人間は認識できない。別々の人が同じ文字を同じようにタイプすれば、出力される記号は全く同じものだが、しかし別々の人が同じ台詞を同じように喋ろうとしても、記号としての言葉よりも音としての言葉が先にかあるいはそれらが同時に知覚される。視覚と味覚・嗅覚の違いは、それが対象を持つかどうかである。視覚が視点と対象との分離を必然的に要求するのに対して、味覚・嗅覚はむしろ対象との同化を要求する。他の感覚器官と違って、視覚のみが概念的把握を可能にする。本多と蔦子は認識する者だ。作中のどんなほかの人物よりも、この二人はそれぞれの作品内で最高の認識に達している。作者や読者の視点が本多たち認識する者の視覚に入り込んでいるのではなくて、むしろこの二人が作品自体を認識し解釈し、それを言語表現によって読者と作者に(のみならず他の登場人物すらへ)提供する。むしろ読者は本多と蔦子によって視界を奪取されているのである。

しかしながら本多と蔦子において決定的に相違点が生まれざるを得ないのは性においてである。二人は同じく認識する者でありながら、その認識の対象は全く違う。本多が行為する天才たちを見ていたのに対し(とはいえ月光姫は女であるから例外だが)、蔦子は美的存在として、平たく言えば最初から被写体として被写体を捉えている。三島由紀夫の『太陽と鉄』には、男は存在たりえない、という命題が書かれている。いくら肉体を鍛えようとも、その姿の美しさは男の本質では全くないというのだ。男は行為する者であることができるだけである。三島の文学的な表現は現在では簡単にジェンダー論の言葉や精神分析の言葉に置き換えることも可能であろう。しかも、本多自身と蔦子自身の性別も違う。本多が天才たちを妬んでいたのに対し、蔦子は美的な被写体を撮る事自体に或る完結した喜びや興奮を得ることができる。見る者としての純粋性は蔦子にこそあると言えそうだが、写真という画像に記録することがここでは概念的把握を妨げているようにも思える。本多が言葉でもって合理的に自分の認識を高めていくのに対して、蔦子は経験的な積み重ねによって認識を掘り下げる。単純に認識の仕方が違うのだと言うこともできるが、本多が天才たちへの妬みを自覚したように、蔦子も作品内世界の美的存在の一つである。事実、妹でなくとも妹的な後輩は蔦子にもいる。であるならば、認識する者としての条件は、作品内部にいながらにして作品世界を認識する特異な視点であるという意味で同じだ。認識者自身と認識対象の重なり合うところに高度で厳密な認識というものがありうるのではないだろうか。