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hkmaroのブログ

読書の感想など

本当のことを言うことはよいことか、ギターの名前

■本当のことを最近言うようになった。本当のことはあんまり言わないのが良いとされているし、実際人間関係の維持にとって必要なことだし、今まで私もそうしてきた。しかし本当のことを言わないことによって自分自身がつらい気持ちを抱えたままでいたりとか、精神が捻じ曲がってしまったりとか、金と時間の無駄に他ならぬくだらない娯楽やガス抜きやひとり酒に浸ってしまうようになるのであれば、沈黙はやはり害となる。年をとるごとに人と口論をする機会も増えたし、友達は減っている。友達どころか家族も減っている。話が合わないというのがその原因だ。話が合わないのは、私に話を合わせようというつもりが全くなくなってきたからだ。不思議なことに、幼年時代から学生のときまで、私は大抵どんな人間とも薄ら笑いを浮かべて話をあわせることができる人間だった。根暗な性格だったし感情がすぐに顔に出る宿痾はあったが、ヤンキーや体育教師を相手にしても特に因縁をつけられることもなく、大過なくコミュニケーションできた。一般に人間は年をとると保守的になるだとか、あたらしいことができなくなるとか、一つの場所から動けなくなるとかよく言われるけれども、新奇なものを自分の世界に受け入れるときの摩擦がわずらわしいのではなくて、新奇なものと真には良い関係が作れないという結果が先にわかってしまうようになるからだろう。しかし、それでも本当のことを言わないようにせねばたいてい生きていけないのが世の中だ。五十になろうと六十になろうとおべっかやお世辞は必要だ。人の弱点はつくべきではなく、改善案を出したりなどもってのほかだ。

企業社会はその意味では不思議な場所だ。日々の仕事をするにあたっては決して本当のことは言ってはならないが、しかし合理的に経営戦略をたてて生存していくにははっきり本当のことを知って本当のことをディスカッションすることが必要になる場面もある。二つの層が同時に存在している。生活世界においても同じように金という現実からくる本当のことが存在してはいるが、しかし生活は本当のことを忘却するためにこそ営まれる。幸せなくらし、何不自由しない暮らし、文化的な暮らし、静かな生活。そこに覆い隠されている本当のことは金の問題だけではない。幼年時代からの親友のことが本当は心から嫌いだったり、親のことが本当はいつ殺すか常に頭を悩ませているくらい憎かったり、子供のことを本当は他の子と取り替えたいと思っていたりするものだ、人間は。なんら不思議なことではないはずなのだが、そんな感情の存在を認めることは非人間的だと普通は思われている。人間であったら、人間らしい感情があったら、家族や親友を裏切るようなことは露も考えないはずだ、ということになっている。

本当のことを言うことによって自身の健全性が保たれて始めて成立する健全なコミュニケーションというものも存在するだろう。私の悔恨はここにこそあって、よその家の子供が時に親と大喧嘩していながら普段は笑って一緒に出かけたり、親友同士で衝突することがありながら生涯付き合いが続くようなことが、自分にはなぜ起こらないのだろうかと思って、そのような機会を待ってすらいたのだが、この態度は間違いで、家族や親友との恒久的な真に親しい付き合いは、「腹を割って」話すことによって得られるべきものだった。本当のことを、つまり「お前のことが嫌いだよ」とはっきり面と向かって言うことのできるようになった私は、今後ますます精神の健全性を、人間関係の健全性を獲得していくであろう。もし老年まで生きられれば、頑迷固陋なふてぶてしい老人になるだろう。生き方を間違えることは、誰にとっても損である。

■新しい赤いストラトキャスターの名前を思いついた。「オルステッド」という名前にしようと思う。もはや児童文学によって人間の感情を育ててこなかった我々の世代の人間は、テレビゲームや漫画やアニメによって全面的にそれを育ててきた。この世を把握するに当たって、平面的なキャラクターたちの比喩ですることも珍しくない。その中でもオルステッドは私にとって重要なキャラクターだ。我々よりも上の世代のオタク達が不動明に見出した善悪の彼岸を、私はオルステッドに見出す。オルステッドは自分の勇者としての栄光が同時に抑圧された非勇者の存在を前提にしてしか成り立たないことを知る。そして人間の愛情は非勇者的な世界に与するということをも知る。今となっては珍しくもなんともない中世ファンタジーの物語類型であるが、主人公オルステッドの目と同化してコントローラーを握っていた私は、世界がさかさまになるような道徳・倫理上の衝撃を受けた。特にテレビゲームは昔の文学本がそうであったように暗くなってから一人部屋で黙々と没頭するものなのである。子供の内面における道徳・倫理を形成するものこそテレビゲームなのだ。決して子供はテレビゲームによっては不道徳や非倫理を学ばない。子供はクリアできないゲームを投げつけて壊したい衝動に駆られながら、翌日再び画面の前に座ってゲームを起動させる。勉強机に毎日座って本を読むことによって得られる忍耐力が、ゲームをクリアするためのシジフォス的苦役に耐えることによっては得られないとどうして言えよう。またゲームとは勝敗の結果に向かって進むべきものである。そこで勝利を正当化する正義の概念を、初めて子供はゲームの世界で得る。だがオルステッドはその正義の概念を相対化させた。ゲームを芸術作品たりうるものとして認識した最初のゲームとキャラクターだし、もしかしたらそれまでの生涯で初めて主体的に触れた芸術だったとすら言えるかも知れない。学生時代に読んだバルザック『ゴリオ爺さん』やカミュ『ペスト』の主人公の名前は忘れてしまったが、オルステッドの名前は生涯忘れ得ないだろう。「たかがゲーム」によって価値観を構成された私自身を象徴するにふさわしいと思う。オルステッドの名に恥じぬプレイをせねばならない。