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読書の感想など

三島由紀夫『小説家の休暇』

最近三島由紀夫への尊敬や賛嘆や共感の念が絶えない。『小説家の休暇』にみる天才的な洞察は何度も読み返す価値があると思うし、それでいながら自分のことを凡人・三枚目であるかのように述べる韜晦も現代の作家(と書いてアーティスト様と読む)から忘れ去られて久しい。

三島由紀夫の思考の最も基本にある主題は、行為の問題である。内と外の問題と言い換えても良い。我々はこの世界を把握する場合、あたかも外側から神様の視点にたっているかのようである。少なくとも、自分自身すでにこの世界の内部の存在に過ぎないという自意識のない思考は、全てが神様視点である。三島はそれを絶えず自己批判し続けた。意識によってこの世界を把握し認識していると思い込んでいる我々自身すでに、唯物論的な肉体に過ぎないのである。だからこそ三島においては、肉体や行為が問題になる。言うまでもなくこれは超越論的という言葉で形容すべき思想の類型であり、哲学史において認識論の重要な主題でもあるが、その重要性が専門的哲学者でない我々に認知されているのはゲーデル的な不完全性を問題にする言説においてであるにもかかわらず、フランス現代思想など流入していない時代に、つまり柄谷行人の批評が流行る以前から、彼の人生や死までを規定するに至った問題としてこのことについて徹底して考え続けていたと言う事実は、本当に驚嘆するしかない。通り魔を可能にしている都市の現代的な諸条件についての考察もすごい。ベンヤミンボードレール論における群集への考察と似たものを感じた。サディズムとマゾヒズムの非対称性についての考察もすごいし、小説家にとって文体は世界解釈の方法である、などと書いてあるところもよい。文体は文章という概念との対比において用いられている言葉であるが、普通文体とは文の様式や形式のことを良い、文章とは文の意味内容のことを指す。つまり、文の形式を作ることが世界解釈につながると述べているのと同じである。

最もすごいと思ったのは「日本文学小史」において、我々が日本の古典文学を触れることにどういう意味があるのかについて、つまり、我々はもはや古典文学を海外文学のように読むしかないのか、それとも我々にも古代の人々と同じように古典文学を享受できる可能性が残されているのか、という問題について、現に我々日本人が、古典の原文を読んで、思想でも、感情でも、論理でも、情緒ですらない、日本語の「すがた」の美しさを感じるという、その事実性のみでもって後者の立場を選択するところである。また、文化意志という概念の発明も、現代ではほとんど右翼に占有されてしまっているが、非常に重要だ。文化意志とは単に伝統文化を維持しようとする意志のことをいっているのではない。そういう解釈はバカ丸出しだからやめにしたほうがよい。このことは以下を読めばわかる。

文化とは創造的文化意志によって定位されるものであるが、少くとも無意識の参与を、芸術上の恩寵として許すだけで、意識的な決断と選択を基礎にしている。ただし、その営為が近代の芸術作品のような個人的な行為にだけ関わるのではなく、最初は一人のすぐれた個人の決断と選択にかかるものが、時を経るにつれて大多数の人々を支配し、ついには、規範となって無意識裡にすら人々を規制するものになる。(『小説家の休暇』新潮文庫、263ページ)

つまり、文化とは「構造」によって100パーセント決まるものでもなければ、「個」の努力によって専らなりたっているのでもない、という極めて重要なことを言っているのである。ここでも三島の「内と外」という思考の主軸はぶれていない。「構造」か「個」のどちらか一方によって世界を捉えようとすれば、たちまち世界は外部にある認識や操作の対象物になってしまう。「構造」にのみよれば、観測者としての絶対的立場を人は得るだろうし、「個」のみによれば、行為者としての絶対的立場を得るだろう。三島は常にその中間に立とうとした。このモチーフは「楽屋で書かれた演劇論」にすらみることができる。我々の文学表現は、一体我々の置かれた文化的あるいは社会的諸条件によって生まされているのか、はたまた我々の固有の実存が主体的に生み出しているのか、これは作品を批評する際の重要な分かれ目だ。どちらに立っても難問は発生する。この問題をどのように理論的に解決するのかというのが、あらゆる批評の試金石であり、この問題を問題として扱っていない批評は批評と呼ぶに値しないというのが私の個人的見解であるが、これを三島は文化意志という稀な概念によって解決しようとした。上記の引用箇所においては、近代の芸術作品が個人的な行為にだけ関わっている、と述べてあるが、明らかにこの概念は、歴史区分の枠を超えて運用可能だ。

また、こまかいところについていえば、昔の文学作品の主要登場人物たちが王侯貴族ばかりだ、と述べてあるところも炯眼だと思う。これは教養のある知識人にとっては自明のことなのかも知れないが、しかし私のような無学な者はアウエルバッハの『ミメーシス』を読むまで全く知らなかった。柄谷行人的な「超越論的」の問題も、ベンヤミン的な「都市」の問題も、ドゥルーズ的な「サディズムとマゾヒズム」の問題も、アウエルバッハ的「様式混合」の問題も、全てが『小説家の休暇』には含まれていて、しかも三島が、おそらくそれらを全て読んでいなかったはずなのに悟っているということに、繰り返しになるけど驚かずにはいられない。もちろん海外のものについては、そのうちのどれかはもしかしたら読んでいたのかもしれないけれど、そうすると原書で読んでいたということになるが……。