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hkmaroのブログ

読書の感想など

哲学の役割、「小説家の休暇」、車載動画

■哲学の役割は、この世のあらゆるものを解釈することだと、最近は考えている。哲学が何の役にも立たないのは、哲学の知がこの世に作用する類の知ではないからだ。作用する知とは例えば古くは錬金術であり、現代的にはそれが洗練されることで成立している科学である。その意味で、社会科学も科学であり、哲学のような解釈の学とは根本的に種類が違う。解釈の学は基礎的な学問である。基礎と応用という言葉があるが、哲学が役に立つとすれば、具体的にこの世を作り替えていく手段として存在しうる諸科学の、その前提として研究対象を措定することが、哲学には可能だ。認識の箱庭の中で、それぞれの対象に価値や意味を付与し、秩序の元に世界を作り直す。その上で、その秩序にのっとった上で、科学は可能になる。しかし現代においては科学は哲学を必要としない。なぜなら、科学的言語による世界の解釈がほぼ全的に可能になったからだ。哲学は、つまり、根本的に比喩であり文学の言葉を用いる認識論的な試みなのである。故に現代では科学哲学という、哲学の長大な歴史からみればほんのポッと出の短い一支流こそが、哲学の主要な研究題材となるのだろう。科学そのものへの解釈しか、解釈の余地が残されていないからだ。それでなければ哲学は、虚無に対象を見いだす神秘主義になるしかない。

■「小説家の休暇」という三島由紀夫の日記形式の短い批評を集めた文章があるが、どこをとっても良いことが書いてある。読書をすることの快楽は、こういう本を読むときに得られる。

日本文化の希有な感受性こそは、それだけが、多くの絶対主義を内に擁した世界精神によって求められている唯一の容器、唯一の形式であるかもしれないのだ。なぜなら、西欧人がまさに現代の不吉な特質と考えて、その前に空しく手をつかねている文化的混乱、文化の歴史生の喪失、統一性の喪失、様式の喪失、生活との離反、等の諸現象は、日本文化にとっては、明治維新以来、むしろ自明のものであって、それ以前の、歴史性と統一性と様式をもち、生活と離反せぬ文化体験をも持つ日本人は、この二つのものの歴史的断層をつなぐために、苦しい努力と同時に、楽天家の天分を駆使してきたので、こういう努力の果てに、なお古い文化と新しい文化との併存と混淆が可能であるような事情は、新らしい世界精神というものが考えられるときに、何らかの示唆を与えずには措かないからである。(『小説家の休暇』新潮文庫、142、143ページ)

30歳の三島由紀夫は、現代なお問題とされているいわゆる「大きな物語」の喪失について、すでにこのように述べている。昭和三十年に初出らしいので、1955年には既に以上のことを述べていたのである。三島由紀夫がすごいというよりも、現代の批評家達の進歩のなさに愕然とする。

車載動画の価値は郷愁と音楽にある。全国津々浦々、という名の郷愁が胸を打つ。クルマを持てる年齢になったかつての少年たちによるBGM選曲が郷愁に拍車をかける。もちろん懐メロでなくともよい。エロゲーソングの名曲であろうと、声優のアルバム曲であろうと、自分(達)の世代の曲が、クルマの中で流れているという不思議な喜びを体験する。自分の知っている土地の車載動画でなくても、どこかでみたことのあるような景色が日本全国に広がっている。国家としての日本を前提にしなければこのような郷愁は可能ではなかろうが、しかし国家の懐で全面的に育てられた田舎出身の人間にとって、どんな村までもアスファルトで舗装された県道・国道や、道路沿いのレストランや、ガソリンスタンドや、紳士服屋などは、それこそが故郷の風景である。私自身はクルマは持っていないしペーパードライバーだしで、みずから動画を投稿することこそないものの、仮に今田舎で生活をしていたら間違いなくクルマとともに生活していたであろうし、田舎の社会ではクルマこそが成人の証である。車載動画によりもたらされる郷愁は、私の心を日本全国へ広げる。車載動画によって可能になる幻想がある。
昨日はアパートに帰るやビールを飲みながら車載動画をぼーっとみていた。みながら寝た。車載動画だけが、肉体の羈絆を超えて日本という共同性へとかろうじて私を誘う。