hkmaroのブログ

読書の感想など

死と孤独、意識と眠り

人間は生まれつき死という名の病を患って生きているようなものだ。子供はこの病への自覚症状があまりないが、その子供ですらも、ふとした瞬間に主観が消えること、意識が消えることについて思いめぐらし戦慄するだろう。三十歳の人にはまだ死よりも喫緊の問題が沢山あるかもしれないが、四十歳の人は人生も残り半分だと気づき焦り始めるだろう。五十歳の人は社会の中核に位置して再び死への思いが遠のくかもしれないが、六十歳になった人はもう目前まで死が迫っているような感じがするだろう。七十歳になったら死が隣にいつもいるような気がするだろうし、八十歳になったら死にながら生きているような心地だろう。死への恐怖と、それに続く焦りの感情が、自分にとって何が一番大事なのかを考えさせる。仕事において一番大事なものはなにか。四十歳の人には仕事における転機が訪れるなどとよく言うが、これは彼女または彼自身が残された時間を意識しての主体的な選択によるところが大きいのではないだろうか。残りの時間、自分が本当にやるべきことに専念しようと考えるのだろう。また生活においては家族のことを考えるだろう。自分が死にゆくとき、家族とともに居られたら恐怖も少なく死ねるかもしれない、と思い、家族を大事にしはじめるだろう。

しかし人は孤独に生まれて孤独に死んでいく。なぜなら自分の意識は自分だけのものだからだ。主観的意識を共有することはできない。これが人間の霊性である。例えば人間の完璧なクローンを即座に作れる技術があると仮定しよう。ある人Aがクローンを作り、その直後に死んだとする。するとクローン人間はAの意識を引き継いだということになるだろうか。Aという人間の個体に宿った意識はクローンに乗り移って継続しているのだと言えるだろうか。答えは明らかに否である。Aは死んだのであるにもかかわらず、クローンはその死の記憶を引き継いだ訳でもなければ、ほんのわずかな時間にしろAと同時に平行して存在していたのだからAの意識とは別の固有の意識を有していたと考えるべきである。であるから、SF物語によくあるように、自分の脳の記憶を機械でできた脳に移植すれば精神的には生きながらえることができるのだ、ということは言えない。その過程には明らかに厳然たる死が挟まれる。もちろん、機械に記憶を移し込まれた者は、目覚めたら体が機械になっていた、と思うだけで、自他ともに精神の一貫性は保たれていると感じるし、事実上その通りなのかもしれないが、しかし仮に記憶を移す際に複数の機械的個体にバックアップをしていたら、と考えると、「事実上」の事実の誤謬に気づくであろう。意識とは、どのように手を尽くしても、意識が宿っていた物質的基盤が死亡したならば、消えてしまうしかないような絶対的固有性を持つものなのだ。複数のAのクローンが同時に目覚めたら、Aのクローンは複数の意識を持つということになるか。決してならない。意識は目覚めた瞬間から彼自身のものでしかあり得ない。だから、生も死も本質的に孤独である。生と死は意識無くして捉えられない観念的存在である。自然には生も死もない。なぜなら生という現象と死という現象を認識する主体がいないからだ。人間は生と死を観念として対象化することができる。故に人間は自然から疎外された存在である。

どうしても克服できない生の孤独・死の孤独に抗うための思想は、自我の否定である。意識はそもそも存在していないのだ、と言うことによって、恐怖を感じる理由などどこにもないと一応納得することはできるかもしれない。しかし今度は、自分のこの経験的世界が、意識と呼ぶに値しないような一貫性にも重要性にも欠けた「反応」でしかない、ということに耐え難くなるだろう。

自我や意識は永遠のものではない。いつかは消える。それは恐怖である。だからなんとかして自分というものの精神を遺したいと人は考えるであろう。まず人は子供を作る。子供は文字通りの遺伝子を受け継いでいるし、同じ家庭でくらすことによって精神的にも肉体的にも親の影響を強く受ける。これによって自分の精神を、子が子を生み続ける限りにおいて何らかの形で遺すことができる。少なくとも影響を与えることはできる。それ以外には著述や芸術表現などによって精神の作用した跡を遺すこともできる。それらの表象は、血縁の無いものにも影響を与えうる。しかし、この作用に期待をできるのはごく限られた高名な作家や芸術家だけである。これはようするに歴史的存在になるということだ。プラトンの思想に強い影響を受けた現代の哲学者は、「現代のプラトン」「プラトンの生まれ変わり」と呼ばれるだろう。これは、精神的遺伝子が最も強力に働いた場合の一例である。意識が消えることに代わりはなくとも、死にゆく者の気持ちを何らか慰めるものとして、子供や表現はある。

人間は死んだらモノになる。意識もなく生命活動もないヒトの死骸はモノである。よく「微生物により分解されて土壌に還る」などと言うが、自然界の構成要素に戻るというわけだ。この考え方自体が、人間という存在は自然界の存在と違うのだ、という超越的な自意識を前提にしている。しかしヒトは自然に還る。分子になって、自意識も自我も形を一かけらも留めることなく、別のモノへと再構成されていく。人間自体が構成されたモノである。人間もモノである。モノに過ぎないはずなのに、意識が生まれたということが、人間の最大の特徴だ。意識を生んだのは言葉である。複数の物質的要素で構成されたに過ぎない人間。その構成されたに過ぎない存在に宿ったもの。それが意識である。意識は一貫性を持たない。それはただ少しの間、人生という短い時間持続するだけのものである。ソリッドでもなく、細切れでもない。それは一般に意識と呼ばれているものではないかもしれない。それを人は心と呼ぶ。魂と呼ぶ。この絶対的に固有な何かを、人間は霊と呼ぶ。人間は、霊的存在である。

豊饒の海』を読み終わった。死を考えるにあたって非常に示唆的な小説だった。小説はやはり、何らかの認識を示していなければ無価値だ。いや、小説は必然的に何らかの認識を示さずにはいない。それに無自覚な小説がゴミなのだ。「問題意識」をでっちあげることにより獲得されると信じられている「文学」性のいかにゴミなことか。また、小説は詩的な営みとは断絶した認識論的な営みでなければならない。三島由紀夫を読んでいつも思い浮かぶのは大江健三郎のことだ。三島が嫌悪しながらも彼自身本質的な出自としては文学青年であったのに対し、文学青年に居直るのが大江だったのだと思う。大江の小説では美というテーマはあまり重要ではないが、しかし若さであるとか青年であるということについては、三島の小説同様に非常に重要だ。二人とも文学青年でありながら、三島は剣道部の精神との間に引き裂かれ、大江は若い弟に妻を寝取られる小説を書いた。しかし『豊饒の海』が本当にすごいのは、最終巻において、文学青年的なエピステーメーも、剣道部の精神や若さ・美・天才という身体性も、その両極が破廉恥な笑い話に溶解させられてしまっているところであり、しかもその人文主義的な笑いも、両者を止揚した先の死をも射程に含めた哲学の完成も、ラストシーンで無化させられている点である。読んでも読まなくても読者にとっては何もない、徒労であるということを、この小説自ら語りかけているようだ。何もないということは同時にまさに「こころごころに」いかようにも解釈できる小説であるということであり、そこがこの小説の豊饒さなのかもしれない。死に対する『豊饒の海』の洞察は、明らかに三島がその後の自死を念頭におきつつ書いていたから得られたものだろう。

眠りは意識の喪失である。ならば、眠りは死の予行演習に利用できないだろうか。よく言われるように、死は「永久の眠り」と表現可能なのだ。眠るたびに、そして目が覚めるたびに、機械の体に記憶を移植した人のように、新たな体に新たな意識が宿るのだと思い込んで暮らすことはできる。夢さえ見なければ、事実上その通りなのだとすら言える。眠る前の身体と起きたあとの身体とでは、当然変化しているので、そこに非連続性が存在していることになるからだ。人間は眠ることによって生き続けられるが、意識は夜毎死に、毎朝生まれているのである。今日の私の意識は、今日限りしか存在しない意識である。ただ漠然と昨日までの記憶を移植されているに過ぎない。ひょっとしたら明日は目覚めないかもしれない。文字通り寝ている間に死んでいるかもしれないし、目が覚めたら他人の身体に他人の記憶を持って新たな意識として誕生しているのかもしれない。そしてもしそうだとしても他人の体で目覚めた意識は昨日別の体に意識として存在していたのだということに気付きようがない。記憶は身体に、脳にあるからだ。もちろん意識は夜毎死んでいるのだから、こうした考えはいわば意識の輪廻転生説であり、神秘主義的な夢想である。けれども、今日の意識が夜の間に他人の意識に飛び移り、しかも誰もがそれに気付きようもなく生きているのだ、と想像することはできる。それが誤りであることは論を俟たないと即座に理解させられる自明性は存在しない。唯一、自分の身体が物理的に構成されたにすぎないものであり、そこにたまたま生まれたのが今日の意識なのだ、という認識によってしか、その誤謬を突くことはできないだろう。