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hkmaroのブログ

読書の感想など

人間は死ぬ

人間は死ぬ。いつかは死ぬのだが、そうするとがんばって生きてみても何の意味があるのかという問いが生まれる。年齢という横軸に、快楽という縦軸をとってグラフにし、その面積が最大になる条件を求めよ、そしてその条件に従って生きよ、みたいな定言命法によって生きるのが最も良いということになってしまう。しかし快楽が最大値を極めたとしても、それでも人間は死ぬ。死ぬことは誰も自分の問題として考えることができない。死んだ後に考えることはできないからだ。死の恐怖を無くすために必要な努力は、自我を無くすことであり、動物のように生きることである。あるいは神秘主義者になることである。動物のように生きるとは、例えばその最たるものは脳みそをクスリ漬けにして深刻な問題を何も考えられない状態に精神をもっていくことである。死ぬまでテレビゲーム漬けで生きるのも似たようなものだし、パチンコもそうだし、セックスもそうかもしれない。刺激物で人生を埋め尽くせば、死という問題を延々と先延ばしし続けられる。そして脳みそがやがて磨耗してしまえば、幸せなことに、ボケて自我もクソもなく死ねる。他方、神秘主義者になるというのは、典型的なのは輪廻思想である。死んでもまた生まれ変わる、と心の底から信じられれば、死の恐怖もやわらぐだろう。実際に、応用倫理的な立場として、臨床的な場面では輪廻思想は死にゆく人の心を安定させるから有用だ、という話を昔の「現代思想」か何かで読んだおぼえがある。輪廻のほかは、天国を信じる態度もやはり死の恐怖を減少させるだろう。神様に毎日祈ればきっと天国にいけるし、天国に行けば死に別れた家族にも会える、ということになる。極楽浄土を信じるのも同じようなものだろう。死とまともに向き合い、少しでもその恐怖を克服しようと考えてみると、普通バカにされている動物的な生き方や神秘主義思想が、ある厳粛さを伴って現れてくる。それらの重さを認めないわけにはいかなくなる。しかし死の恐怖にとらわれすぎることは人間の活動を愚鈍にさせるだろう。人間が健全に社会のなかで活動していくためには、死の恐怖をどこかで括弧に入れる必要がある。その為の嗜癖であり、また宗教なのだ。しかし、その嗜癖か宗教かが、同じく社会の中で争いの原因となることも確かだし、また個人の人生の質を極端に変える場合があるのも確かだ。ではそれら二つ以外に、人間は何をもって死の恐怖を括弧に入れることができるのであろうか。死の恐怖の前では近代的で科学的な悟性など何の役にも立たない。文学的な実存を、哲学的な命題を、神秘主義的な夢想を、科学の常識で否定して喜んでいる輩には知性が決定的に欠けている。科学者と呼ばれる人の中にもそういう程度の低い人間がいると知って驚いたことが学生時代にはあった。死を覚悟した人に、あるときから極彩色の夢を見させて徐々に死なせてやるサービスがあってもよいのではないだろうか。そのようなサービスがあると知っていれば、嗜癖も信仰も持たない人でもそこそこ安心して死を括弧に入れて生きられるのではないだろうか。

三島由紀夫豊饒の海』を事情があって最近読んでいるが、三島の文体は非常に洗練されている。これは非常に良い文学だ。人間を批評的に描く文体(例えば、三島の小説から直接引用したのではないが、「彼女はいつも身の不幸を嘆いていたが、その嘆きへの依存が彼女に生きる力を与えていた」などという文章)は、スタンダールバルザックといったフランスの自然主義を彷彿とさせるし、主人公が知識を蓄えて自らの人生哲学を完成させていくさまはドイツ的ビルドゥングスロマンでもある。日本語で書かれた小説で三島の小説ほど教養的で総合的な小説は他にあまり見たことがない。これはある程度手放しに賞賛してしまってもいい文章だ。ラノベやエロゲーの文体がいかにカスかということを久々に再確認した。従来型の純文学はもう終わった、これからはサブカルの時代だ、などとのたまうのは思考停止なのだと深く反省した。もちろん、今でも良い純文学は生まれ続けている! などということも絶対にありえない。今あたらしく生まれている私立大学出身者による「文学」はゴミだ。純文学は教養に溢れた帝大卒のエリートが書くからこそ意味があったのだ。無教養なバカが全体性を意識できずにオナニー的に書いたちょっと面白い日記が「私小説」だということになってしまい、事実上エンタメ小説と区別がつかなくなってしまったのだ。しかし上記と矛盾するようだが三島の小説を読んでいて残念なのは階級意識が如実に出ているところで、端的に言えば金持ちしか主要人物として登場しないのだが、これは実際に三島も金持ちだっただろうからしょうがないのかもしれない。というか帝大卒な時点で文学をやっている人はみんなある程度金持ちだ。小説に必要なのは教養だ。教養というものの定義も難しいが、つまりリベラルアーツだ。自由になるための技術だ。ところで『豊饒の海』は輪廻転生が重要なテーマなわけだが、それにからんで仏教の教義も色々出てくる。印象深いのは阿頼耶識の話だ。大雑把にいうと、仏教は自我を否定するが、じゃあ今ここにあるこの経験的な世界は何なのかというと、それが阿頼耶識なのだ、ということらしい。人間の認識している世界が阿頼耶識なのだとすれば、人生とは阿頼耶識の積み重なりでしかなく、それはほんの百年足らずポッと出て消える。

無為徒食が人間の最も人間らしい生き方を可能にする。巷には六十歳を過ぎて定年になってもやることがなくてまた仕事を始める人がいるらしい。正直キチガイかと思う。働くことが生きることなのか。働くことによって目前に迫った死を見ないようにしているのだろうか。ならそれはそれで合理的だ。しかし死ぬ運命の人間が、この世界の始まりも終わりも知ることのできない人間が、それでも何故生まれてきたのかということを、しかも悩ましい自我(のように見えるもの)を伴って生きているのかということを、それができるにも関わらず問わないままで死んでいくことは、虫けらや動物と同じように生きて死ぬことを選ぶのと同義だ。