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hkmaroのブログ

読書の感想など

百科事典的な知識と現実の生の知識

よく日本におけるブログはどうでもいい個人の日記であり、それらは情報としての価値を全く持っておらず、そのくせ膨大に存在しているから検索の際のゴミであり、しかもアホが職場のこと書いてしまうから情報漏洩のもとである、などといわれる。つまり、もっと「意味のある」「有用な」情報をジャーナリスティックに個人で発信できるところにブログの本来的価値があったのに、日本では単なる日記ツールとして利用されていていろんな意味でダメだ、と言われている。しかし、私は当然このような日記を垂れ流しているところからも明らかな通り、むしろ個人の日記はどんどんネットで書かれるべきだと思っている。それはまず第一に「集合知」論的な意味でそう思っている。個人の垂れ流し日記は、twitterでのつぶやきがそうであるように、極めて生で新鮮な知識を読む人に提供する。それをマーケティングに使うのも自由だし、同じ化粧品を使っている人の感想をみて参考にするのでもよいし、色々な社会政策などが実際に国民にどう受け取られているかなどを見ることもできる。つまり大衆をマスとして捉える以前の個別具体的なサンプルを得ることができる。これらはむしろ個人の日記が「どうでもいい」ことを書いているからこそ「価値がある」。そして第二に、書く人の側のアイデンティティ形成の上でも垂れ流し日記は重要である。これまでもブログで日記を書くということに関して何度か自問してみたが、ろくに人が見に来ることもないこのようなブログを書き続けることに何の意味があるのかというと、日記を書くことによって日々の出来事やなんかを対象化することができるからだ。そして対象化したものを自分の価値観の体系の中に位置づけることができる。その人個人の内的世界に秩序をもたらすことができる。そして、もし書いているブログが人に見せてもいいような内容だったら、それは自分の名刺や自己紹介などよりも雄弁に他人に対して自分を紹介するものになるだろう。その意味で、真に個人をメディア化するものこそ、垂れ流し日記ブログである。
そしてむしろ、百科事典的な「正確な」「信頼性の高い」知識こそネット上では「無価値」である。情報が錯綜するのはいつもネット上においてである。ネットにも重要な面はもちろんあるのだが、例えば東日本大震災のときに我々が頻繁に頼ったのは、速報性という意味でも、情報の有用性という意味でも、テレビまたはラジオであった。ネットは安否確認などで利用できただろうと思うが、しかしデマが飛び交ったのも同じネットにおいてである。オルタナティブメディアとしてのネット記事は、実際に信頼すべき情報であったとしても、しばしば陰謀論としか受け取られなくなるか、あるいはプロパガンダに過ぎないと思われてしまう。わざわざ情報を紙にするまでの障壁の高さは、その情報がある程度信頼性の高い情報だというメッセージを発する。書籍の出版には複数の人間のチェックが入るだろうと言う当然の期待があるからだ。