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hkmaroのブログ

読書の感想など

倫理 資本主義下のマンガ・アニメ・ラノベに純文学的な不快さはあるのか

■倫理
だいたいで、いいじゃない。』という吉本隆明大塚英志の対談本を読んでいるが、その中に倫理という言葉が何度も出てくる。よく倫理は道徳と区別すべきだと言われたりするが、事典の類を見ても道徳と倫理はほぼ同じものだ、とか書いてあって、その違いが明確にわかるわけでもなく、ネットで検索してみても各人が勝手に恣意的な区別をしているだけで何ら確からしいことは分からない。なので、とりあえず今は自分勝手に倫理と道徳について言葉の定義をしてもよいことになっているらしい。
そこで自分なりに言葉の意味を考えたのだが、倫理とは基本的には人間が生きる上での指針だ。が、この人間と言うのが、例えば時には同じ人間を殺しもする人間であり、法的な犯罪や法には触れない悪いことなどを往々にして犯してしまう人間であり、簡単に言えば他人に害をなすことがある存在であって、そういう存在である人間が生きるうえでの指針だ。だから倫理という言葉の定義は人間という概念の定義を終えたあとでしか出てこない。人間という概念、というよりも、人間がしでかす悪行を認識した上でしか出て来ようがない。人間がしでかす悪行、と書いたが、そうだとすると何が悪行で何が悪行でないかが分かっていなければ倫理的ルールや指針は定式化できない。何が悪行で何が悪行でないかを決めるのが道徳と呼ばれるものなのかもしれない。そしてその道徳の基準とは経験的なものでしかない。人々が生活しているうちになんとなく良いとか悪いとか感じられるものが道徳を形成するのであろう。
ネット上の恣意的な定義たちも、倫理は内的な規範だ、とか、道徳は成文化されていない社会的な規範だ、とか書いてあって、だいたい上記のようなことと矛盾していないんではないかと思う。吉本隆明は、酒鬼薔薇とか援交女子高生とかの問題は倫理の問題ではない、人間とはそもそも酒鬼薔薇的なところや援交女子高生的な性質を持ちうる存在であって、人間一般の理解のうちに含めなくてはならず、医療少年院に入れたりカウンセリングで治したりすべきような問題ではない、と言っている。つまり、未だ人間になれていないモンスターみたいなものだとして扱うべきではない、というようなことを言っている。ということは、吉本隆明は倫理的な批判とは同じヒトという種を人間かモンスターかに分けるような考え方を前提にしているのだと思っていると推測される。私の恣意的な倫理の定義にはあんまりそぐわないような気がするが、しかしそういう考え方が倫理について、人間について問うている人間の言葉だということは、よくわかる。それをしない人間はそれこそ非人間的だと思うこともよくある。しかしそれは矛盾だ。無前提に自分たちは人間だ、と信じて疑わないヒトもやっぱり人間なのだと考えてあげなくてはならんだろう。そういうヒトがこの社会の大部分を構成しているからには。

■マンガ・アニメ・ラノベは一般にサブカルチャーだと呼ばれている。これらサブカルチャーの現在的な繁栄は資本主義下の高度消費社会においてしかみられない。資本主義的な流通経路で我々の手元にやってくるマンガ・アニメ・ラノベには、「資本主義的」というレッテルを貼るべきだ。資本主義を前提にして成立しているプロダクトとしての娯楽作品は、その事実性のみでもって100%資本主義的というべきである。しかし、それらサブカルチャーが作品の内部においても100%資本主義的であるとは必ずしも言い切れない。たとえばそれは、資本主義下の複数の株式会社が協力しあって成立しているはてなダイアリーというサービスや、インターネット通信というサービスによって書かれているこのブログが、その事実性から100%資本主義的だということはできるにしろ、日記の内容そのものは反資本主義的であるところがしばしばあったりすることと同じである。しかしながらプロダクトは投資した資金を回収し、収益を上げなければならない。そこで資本主義のシステムに商品として組み込まれたマンガ・アニメ・ラノベは、内容においても資本主義的でなければならなくなる。内容における資本主義性とは、作品内でテーゼとして資本主義を翼賛することではなく、売れる内容をどれだけ徹底して実現するかということである。資本主義下のプロダクトに込められる思想は、とにかく客に快感を与えようという考えである。対して純文学は客を不快にするようなものもかなり多く含む。純文学的な発想においては客が快感を得られるかどうかは二の次である。なんで読んで不快になるようなものが「良い」とされるのか。それはそこに批評性があるからだ。あるいは、人生の悩みに答えるようなところがあるからだ。あるいは一般の人には快感を得られなくとも、一定の文脈を理解しているある種の人々にとっては非常な快感を得られ、しかもその「ある種の人々」が経済的に裕福な人であったり権威や権力に近い人であるからだ。純文学的なものの旗色が悪いのは、明らかに売れないからであり、つまり採算が合わないからだ。売れていなくとも採算が合えば純文学は存在感を示し続けるはずだ。しかし現代の資本主義に高度に順応した人々は、とにかく快感を求めている。「偉い」人でもそうなってきているということなのだろう。資本主義下の娯楽作品は、基本的には客にとって快感の増大する箱庭的な夢の世界を提示しなくてはならない。夢の世界に近づけば近づくほど資本主義的に優秀だということになろう。内容に深みがあるかどうかは、夢の世界の実現に奉仕する限りでしか意味をもたない。
しかし資本主義下のプロダクトはモデルチェンジをしなくてはならない。永久に発展し続けることを宿命的な本質に持つ資本主義は、新たな快楽のあり方を提示しなくてはならない。ゆえに、エポックメイキングな作品は快楽的な夢の世界であると同時に、それまでは快楽的だと思われなかった表現をも使用する。それが「新しい」と評価され、あらたな夢の世界の類型が築かれ、客はそれを快楽として受容することを覚える。それが娯楽メディアの業界における「イノベーション」である。
娯楽エンタメ作品を、芸術だ文芸だと評価するのはあまりに能天気すぎる頭の悪い態度だ。そもそもこの資本主義の仕組みを利用して広がるような作品群が芸術でも文芸でもありえるはずがない。今までそれが可能であったかのように思えたのは、過渡期だったからだろう。ただ可能性としてはモデルチェンジの際に含まれる「棘」というか差異が、作品内部の快感比率が許す限りにおいて、かろうじて快不快を度外視した非資本主義的な表現であり得るだろう。誠実な批評はその部分をこそ拡大して取り上げるべきだ。ここにおいて売れたものを批評する態度と純文学的なものを批評する態度が、マンガ・アニメ・ラノベについて同時に実現可能になる。それは砂漠の中の針を探すほどに不毛とも言える努力かも知れないのではあるが。