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hkmaroのブログ

読書の感想など

逐語訳 日記

ベンヤミンのアンソロジーに、翻訳についての文章も入っていて、ベンヤミンは、翻訳は逐語訳でなくてはならない、というようなことを言っている。意訳やわかりやすい訳や意味の通る訳はダメだというようなことを書いている。アホはこれを読んでも、逐語訳によってこそ神の言語に至ることができる、などと述べている箇所から、ベンヤミンが神秘主義者だったからそう言ったのだ、とか考えてそれで終了するのだろう。しかし、英語の文章を読んでいるとartという言葉に芸術という訳をつけるとどうやっても意味が通らない文章が出くわすことがある。もちろん、artを辞書で引いても「技術」という訳は載っているが、しかしtechnologyという語も同じく「技術」と訳される言葉であり、逐語訳するためにはこれらを日本語に変換するときに書き分けることができなくてはならない。多分それをせずに文脈によって適当にわかりよい日本語になるよう「臨機応変」に訳を与えるのが意訳なのだろう。当然、英語で書いている著者の意図としてartと書いたところはartでなくてはならず、technologyと書いたところはtechnologyでなければならなかったのだろうが。

そもそも「技術」という言葉が生まれたのは逐語訳的な発想によってではないだろうか。著者の意図に忠実に逐語訳をしてるとどうしても日本語や漢文の語彙では足りない部分が出てきて、それで新しい言葉が作られたのではないだろうか。これによって現代の我々が西洋語から翻訳された文章を自然な日本語としてかなり違和感無く読めるようになったのだ、というのは有名な話で、語彙の体系として、artと技術では音も文字も大分違うが、同じ地位に一対一対応する言葉たちを手に入れたということは言えるだろう。つまり現代の日本語は外見上日本語だが西洋語の言語体系も色んなところに埋め込まれているのである。

同じような過程を何回も何回も経て、最終的に国際語的な言語においてはどのような言語からの翻訳も違和感無く行えるような日が来たら、と想像してみると、その言語は確かに神の言語に近いと言ってもいいような気がする。もちろんベンヤミンは神の被造物たる無機物さえも言語をもっていて、そのモノが語りだす魔術的言語こそが神の言語だ、とか言っていて、単に全人類的な言語体系を取り込んだ言語だけでなくて、人類の外側のことも考えているから、彼にとっては本当に神の言語は一通りに限られるような絶対性に満ちた何かだったのだろう。そういう発想は昔からあって、今も信じている人たちは沢山いる。例えばオノマトペ的な表現は異なる文化圏においても似たような表現になることがある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%AC%E5%A3%B0%E8%AA%9E

ここに犬の鳴き声の表記一覧が書いてあるけれども、ここではそれぞれの違いがわかるようにということで並べてあるみたいなのだが、しかしこれだけいろんな国に犬の鳴き声の表現がありながら、その多くが短い音を二回繰り返すことで表現している、ということは注目すべきなんじゃないだろうか。もちろんもしかしたらオノマトペ研究の専門家に言わせればそんなものは対して注目すべきポイントではないのかもしれないが、「犬」という人間でない被造物が、被造物自身が語りだす言葉として「犬の鳴き声」を持ち、その結果各国で似たような「犬」もしくは「犬の鳴き声」を表す言葉が生まれたのだ、と考える人がいても何ら変ではない。ここでは犬が鳴き声を持つから、そんなものは鳴き声を持たない被造物については言えないじゃないか、という反論が容易に予想できるのだが、しかしベンヤミンが言いたかったのは、どんな被造物だって犬でいう鳴き声的なものを持っているだろう、ということなんじゃないだろうか。そして犬の持つ言語とは鳴き声のみならず、犬が全身から発している犬的な部分全てが言語だと言いたかったのではなかろうか。例えばりんごの鮮やかな赤色は、りんごの語りだす言語である。そういった意味では、こういう言語絶対主義みたいな主張は、基本的に唯名論と相容れないんだろう。唯名論とは、「赤い」とか「硬い」とか、それこそ「犬」などの抽象的な観念は実在せず、ただ名前がつけられているのみだ、という考え方だからだ。



今日は休みだったのでチャリンコで所沢まで行き、平日昼間の超静かな住宅地サイクリングを堪能し、折り返して新所沢を通り過ぎて小手指まで行き、その先にあるアレな名前の新古書店に立ち寄り、至道流星の『電撃☆SSガール』という小説を買った。至道流星は会社経営者にしてラノベ作家という、自分にとってはあらゆる意味で敗北感を感じる存在であり、本屋で名前を見かけるだけでも吐き気がするのだが、店内で流れていた南波志帆の歌にささくれ立った心を癒されたので、なんとか買うことができた。南波志帆だが、店内で流れていてどうしても気になって、店員に誰の歌ですかと聞いたくらいだが、これは有線ですからわかんないです、調べます、と言われて調べてもらって名前を知った。普段こういうディスクユニオンにたむろしているオッサンみたいな質問はしないんだけど、店内で流れている音楽にすらすがりたいほどに心がささくれ立っていた。本当に今日は落ち込んでいたというかがっかりしていた。がっかりしつつもチャリをこぎながら哲学のことを考えたりしていたが、しかしいい年こいて哲学もねーだろ文学青年か、などと考えたりした。このまま年をとっていくと、50才とかになってもフッサールがどうとかのたまうオヤジになるわけだが、そういうオッサンがいろんな場面で害でしかないことは、この資本主義社会においては自明だ。なぜ害なのかというと、専門家による分業体制において哲学とかにはまる人は専門的知識を持ちたがらないからだ。しかも学者になるのならいざ知らず一般人で哲学を語る人というのは、いかにも素人の知ったかぶりで得意になっている人という感じで、色んな人を不快な気持ちにさせること請け合いだ。