hkmaroのブログ

読書の感想など

文学フリマ

文学フリマに参加した。文学フリマとは同人誌即売会である。他の同人誌即売会と少し違うのは小説とか評論とかの、あんまり絵の割合が少ない本が主においてあることだ。絵が少ないということは文字が多いということだ。文字が多いということは、必然的に何かを言葉で主張することになる。その主張が命題とか判断とか言われるものであり、その判断が連なることによって文章ができる。文章とは判断の連なりである。小説は判断の連なりでできている。いかに花が美しいかを語る文章も、判断の連なりである。しかしもしかしたら詩の美はそれとはまた違うところにあるのかもしれない。つまり、詩は本質的に判断の連なりではないのかもしれない。詩は判断の連なりとして存在することが必要なのではないのかもしれない。美しい小説は、詩的だといわれることがある。言葉の表現それ自体の美は、一般に「詩的」だと言われるようなところにあるのかもしれない。だが、小説は詩ではない。詩人になれなかったものが小説家になる。いかに詩的であろうとも、小説は判断の連なりでしかなく、そこにこそ小説の可能性と限界が同時に存在する。つまり、小説も評論も随想録も、判断の連なりという意味で同じものだ。これが何を意味するのかというと、小説においても著者の判断が必然的に表れるということだ。著者の判断ではなく登場人物の判断として表れていると読み取れる場合があるかもしれないが、著者が書いているのだからどちらにせよ同じことだ。マンガやエロマンガが即売される同人イベントと違うところは、このように文学フリマは判断の塊が即売される場所だというところである。ではマンガやエロマンガの同人イベントでは何が即売されているのだろうか。これについてはまだよくわからないが、しかし詩と同じような位相に属する何かが即売されているのだろうと推測することはできる。つまり、判断に還元できないようなものを売っているという意味で詩とエロマンガは同じ位相に属するのではないであろうか。それどころか音楽とエロマンガの関係についても同じことが言えるだろう。それらは訴える感覚器官がそれぞれ違うというだけなのかもしれない。ところで、音楽(聴覚)とエロマンガ(視覚)が感覚器官に訴えるという話はたちどころに理解できる話であるが、詩も同様にそうだというのは理解しにくい。詩を感じる感覚器官とはどこなのであろうか。詩は目から、あるいは耳から知覚される。目で知覚する美だということは、詩は図像として美しいのであろうか。耳で知覚する美だということは、詩は音として美しいのであろうか。両者ともに、そういう部分も確かにあるといえそうだが、しかしこの二つのことをもってわれわれは主に詩の美を判断しているのではないのではないか。ロシアフォルマリズムの用語に異化という概念があるが、詩の言葉が、慣れ親しんだ言葉の体系をかく乱するから詩は(詩的表現は)美しいか、少なくとも驚きをもたらすのだと、言えないこともないが、では詩の言葉は歴史の流れを経ると価値を失うのか。古い「名詩」は、それが陳腐だと感じられるようになるほど定型句化すると価値を失うのか。つまり、歴史を経ると美しくなくなるはずなのではないか。古い名詩を愛で、そこに詩的価値をみることは、単なる勘違いということにならざるを得ない。

エロマンガは目で知覚するが、勃起するのはペニスだし、濡れるのはヴァギナである。つまり、目が快いのではなく、ヴァギナやペニスが快いのである。もっと正確に言うならば、ヴァギナを濡れさせペニスを勃起させるような二次的な感覚器官が快いのである。この二次的な感覚器官は、その時々の人間が生きる文化に強い影響を受けている。八十年代のエロ雑誌を見ても、もはや私のペニスは勃起しないが、現代のエロマンガになら勃起する。音楽にも同様のことが言える。耳で知覚する音楽は、耳が快いのではなく、耳の奥にある二次的な感覚器官が快い。その二次的な感覚器官が、オーディエンスを踊らせるのである。この二次的な感覚器官は、ふつう脳みそにあると考えられている何かなのかもしれない。が、単に脳みそが快さを感じているのだと捉えることは誤りである。なぜなら、既に述べたように、八十年代のエロ雑誌や音楽を、かなりの数の人がもはや快いと感じないからだ(懐かしいとは思うかもしれないが)。つまり文化に強い影響を受けているのである。結局その「文化からの影響」というものが、普段目にし耳にするあらゆるもの(=文化)の知覚の経験が脳みそに作用しているのだ、という風な記述に還元できたとしても、文化を作り出すことはどんな実験室にも不可能なことだ。つまり、文化が人間の二次的感覚器官(≒脳)に対して実質的に支配力を握っているということを我々は認めなくてはならない。

以上のエロマンガについての考察を経れば、詩の美がどこにあるのかについて、おぼろげながら仮説めいたものを立てることが可能になる。詩の美を感じる場所、詩を快いと感じる場所も、やはり二次的感覚器官なのではないか。そして、図像としての詩、音としての詩、異化作用としての詩、これらが詩の美の本質ではないとするならば、外国語で書かれた詩を日本語に翻訳しても、詩の本質的価値はある程度翻訳可能だということが言える。言葉がもつ意味、その意味の組み合わせが生み出す美、これを人間は汲み取っているのではないであろうか。

そこから話を戻せば、文学フリマで主に取引されているものは、上に述べたような形では二次的感覚器官を快いと思わせるようなものではないということになる。もちろん、小説や評論を読んで二次的感覚器官が快いと感じることはあるだろう。その場合は話の筋が美なのであろう。しかしそれとは別の位相で、小説や評論は判断の連なりである。判断とは、誤解を恐れず言えば、趣味についての判断も含むが、政治についての判断も含む。判断するということは、その下した判断に対立する判断を排除するということを必然的に帰結せずにはいない。であるから、懐疑主義者たちは昔から判断留保をしてきた。ピュロンはエポケー(判断停止)し、デカルトは「速断を避ける」と言い、フッサールは判断を「かっこに入れ」た。平たく言えば、判断を避けた。もちろん「判断を避けます」という言明をすることがすでに判断なのであるから、正確に言えば、少なくとも避けようとした。だから、判断の塊が流通する文学フリマは本質的にポレミカルな場所であるはずだ。サークル抽選に漏れさえしなければ、誰でも参加することができる。ここで、実際の文学フリマは平和裡につつがなく開催されている、という状況に対して異論や文句をつけようというつもりは全く無い。我々自身その平和さの恩恵を被って、無事に本を発行し、即売することができた。しかし、判断が流通しているはずの文学フリマで論争が表面化しないということは、大多数の判断に対立する判断が即売されていないということを意味するか、仕組みとして相反する判断が出会う可能性が封じられているということになるだろう。もしくは、買い手が小説や評論の判断の層を見ることができないのかもしれない。私自身、文学フリマで評論を買うときは、好きなアニメについて語ってあるというただそれだけでコレクション的に同人誌を買っているのかもしれないし、小説を買うときは、挿絵や、雰囲気や、ジャンルにつられて買っているのかも知れない。もちろんそれはプロダクトとして優れた本(及び本の周辺がまとうサークル全体の雰囲気)である、という意味で買う理由としておかしなものではない。しかし、既に述べたように、小説や評論はそれらの快さとは独立した意味において、何らかの判断として存在している。