hkmaroのブログ

読書の感想など

一つのことを続けることの大切さ

一つのことを続けることは大事だ。多くの人は一つのことを続けられない。続けられない人は大衆的な消費者になる。大衆は一つのことを続けられないように操作されている。高度な消費社会は消費・商品のモデルチェンジで成り立っている。チェンジしたモデルにすぐ飛びつくから一貫性を維持できない。しかしそのなかで一貫性を維持した人はひとかどの人物になる。少なくともひとかどの人物か、あるいはキチガイだとみなされるようになる。要するに変な人であり特殊な人であり個性的な人だとみられるようになる。それは市場価値を持つ。もちろん普通価値をもつとは思われない人もいるし、それが価値だと気付かれすらしない人もいるだろうが、基本的には市場価値が宿る。なぜならその特殊性は差異を形成するからだ。

しかしここでは市場価値を持つことが大事なのだということが言いたいわけなのではない。一貫性が大事だといいたいのである。一貫性とは人間性である。人格性と言ってもいい。我々は人間に人格を期待する。人格にとぼしい者を動物的だと揶揄したりする。短絡的に生きる人をDQNだなどと言ったりする。我々は人格のある人に対して、あの人は一度口にしたことをきちんとやり遂げる人だ、という風に期待する。目的のために我慢できる人を立派な人だと思う。つまり多面性を持たない人こそが人格的なのである。この平面的な理解こそが人間理解の基礎である。それはあまりに狭いものの見方だという批判をすることも可能だが、しかし批判という行為自体が一貫性への期待に基づいている。我々が批判をするとき、その対象に一貫性があるかどうかをチェックしているのだ。我々は現政権を批判するとき、過去の発言と矛盾している点を糾弾する。外見と裏腹な内実を批判する。現実を無視した政策を批判する。そこに何が求められているかというと、一貫性のほかにない。

一つのことを続けられない人は、これから先も続けられないだろう。続けられない人は非「ひとかどの人物」なのだから非歴史的な存在である。歴史に名を残さない。歴史に名を残さない人間として生きることに耐えられるということは、本人が非ひとかどの人物であることとの間に必然的な連関を持たない。つまり、非ひとかどの人物でありながら、非ひとかどの人物であることに耐えられない人もいる。この中間的位置に属する人は疎外の感覚の中にいる。この疎外の感覚を見つめることが文学的に思惟するということなのではないであろうか。あるいは実存主義に目覚めるということなのではないだろうか。ここにこそ散文で思惟することの本質があるのではないだろうか。エッセイ・試行をすることの意味があるのではないだろうか。ひとかどの人物であるということは非ひとかどの人物でありえた可能性を失うということでもある。歴史的存在は、歴史的存在になった時点で、実存主義的な価値を失う。散文的に思惟すること自体が、ある種の一貫性のもとでしか成されえない。非ひとかどの存在でありながら、散文を残すということが目指されねばならない。「深い」文学を志すならばそうでなければならない。