hkmaroのブログ

読書の感想など

『郊外の社会学』とドラえもん

『郊外の社会学——現代を生きる形』(若林幹夫著、ちくま新書、2007)を読んだ。二週間くらい前に。記憶が少しでも残っているうちに感想を書こうと思う。

色々と書いてあるのだが、自分にとって興味深かった点をまとめると、まず第一に郊外とは都市への通勤を前提としている住宅街ということである。郊外とはsub-urbであり、urbanを前提としている。第二に、郊外の団地は当然のことながらはじめから団地だったわけではなく、それなりに地元の文化を破壊するか、破壊するまでいかなくても乱入してかきまわして成立している。つまりもとは田舎である、ということ。これらは言われなくても誰の目にも明らかなことのようであるが、そうであるがゆえに普段は意識の片隅にも上らない。自分の住んでいる団地のあたりにもその昔地元の神様がいて信仰されていたのかもしれない、などという想像は普通しない。つまり、(伝統)文化をいったん漂白することによって成立しているのが郊外であり、また今だ到来していない文化(的生活)を夢見るのも郊外である。著者によるつくばエクスプレス沿線にある「郊外」の町々の比較によって、郊外にも様々な様態があるということが分かる。ほとんど完全にベッドタウン化して、いかにもな郊外になっちゃった町や、田舎的で「地元」的な雰囲気もバリバリに残っている町も、たいてい一緒くたに「郊外」として語られている。そこで著者がそのように勝手気ままに語られる郊外の本質として見出した特徴が、住むことの偶然性である。同じような建物に詰め込まれて住まわされている郊外の団地の暮らしが、時に人々に「非人間的だ」という印象を与えるのは、まさに非人間的な均一的で没個性的なその様子がそう思わせるだけでなく、ただ都心に職場を持って、結婚して家族を持ち、その上で将来のことをみすえた場合、一家族が住めるくらいの広さがあって、通勤にもそこそこ便利で、生活もしやすい場所に引っ越したい……と考えて、自然と住む場所はそのためにこそ誂えられた郊外の団地に決まり、彼らはたまたまそこで新しい生活を始めるだけなのであって、つまり住む人本人と住む場所との間に運命的な関係性が存在しないからなのではないか。そして借家暮らしの生活が終わればまた違う土地に引っ越したり、今度は一戸建てを買ったりと、流動性も高い。実は「非人間的」な均一性とかよりもこの偶然性のほうが重要だと私は思う。この偶然性は、宮台真司がよく言うような、流動性の高まりと不透明性の高まりによる「隣の人は何する人ぞ」的不安の高まりと同じものを意味するのだが、その不安が郊外の物語を求めるのではないだろうか。郊外の物語とはなにかというと、ここではそのものズバリの郊外を描いた物語のことを言いたい。つまり、どこにでもいる、そのへんの人物が主人公の、どこにでもある町が舞台の物語である。

こうした物語の典型例がドラえもんである。というか、こうした郊外の物語は典型例を探すまでもなく昨今の現代が舞台のエンタメ物語のほとんどが、郊外の物語である。特に学園ラブコメなどはそうである。ドラえもんに注目するのは、のび太のキャラ造形がほとんどエロゲーやラノベの主人公キャラの原型となっているように思われるからである。石ころや恐竜にのび太が惹かれるのは、それらのことを「放っておけない」からであるが、これはエロゲーやラノベの主人公がヒロイン達に対して抱く原因不明の感情と同じものである。また別の機会に詳論してみたいが、ここでは示唆する程度にとどめておこう。なぜこれらの物語に現代人は惹かれるのか。もちろん郊外に住んでいる人が消費者の大多数だからだとも言えるだろうが、それよりも、世代を超えた文化をもはやもたず、かといってこれから夢見る文化はまがいもののジャンクでしかない(『郊外の社会学』にも出てくるが、「地中海(笑)」風の佇まいをしたマンションや、ショートケーキハウスと呼ばれる類の家)、郊外という土地の運命は、わが国ニッポンの文化全体の運命と同期しているように思われる。それほどまでに郊外から広がる問題系は、非常に広い範囲に亘っているのだ。ゆえに郊外について考える者は日本そのものについて考える者でもあるし、そうでなければ誤りである。都心に住む人や、逆に田舎に住む人にとっては郊外の問題は他人事なのかというと決してそのようなことはない。最初に述べたように、郊外と都市は密接不可分の関係を持っているし、それでなくとも郊外の物語が郊外的な感性を都心に逆輸入してもいるだろう。その呪縛から逃れられるのは本当の金持ちや本当の貧乏人だけである。田舎に関して言えば、田舎の生活は車無しでは不可能であるから、必然的に郊外的な車文化圏に包摂される。

ところで話は全く変わるが、学生時代にニート同然だった自分に勉強をやる気にさせてくれた講義がある。合田正人先生の倫理学だ。合田先生の講義を聞くために大学へまた行くようになり、六年かかったがなんとか大学を卒業することができた。その合田先生の本が出た。『吉本隆明柄谷行人』(PHP新書)である。フランスの哲学書の翻訳で名高い先生がこのような本を書かれるとは意外であった。講義を受けながら読んでいたスピノザモンテーニュをまた読みたいと思わせてくれる本だ。最近は全く本に割くような金がなく、非常に貧乏なのであるが、これを機会に学生時代に毎日古本屋通いして集めた古書を読み崩していこうかと思っている。地震のおかげでとかいうと不謹慎だが、本棚が崩れて本が部屋に散らばって、まるで「俺を読め」と言っているかのようだ。