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hkmaroのブログ

読書の感想など

『妹がゾンビなんですけど!』〜クソラノベを回避するために〜

『妹がゾンビなんですけど!』というラノベを読んだ。

ラノベやマンガに限らず、クソゲー、クソ小説、クソ映画、クソ音楽(場合によってはこれにクソアニメやクソアニメDVDを加えても良いが、アニメはその大部分においてテレビによる無料視聴が前提であるので例外とする)をつかまされる危険性は常に我々と共にある。これが無料かそれに近いくらいの低価格(50円〜200円くらいの価格帯)で提供されるのであれば、いくらクソがやってこようとも瞬時に「切」って延々と名作との出会いを待てば良いのであるが、相応の対価を要求されるとなると、まず第一にお金のロスが深刻な上に、お金を払った以上最後迄見届けねばならぬ(もったいない)という心理が働いてしまい、時間のロスも激しい。回避できれば金と時間の無駄を大幅に省くことができるだろう。そこで今日はこれらのクソをいかにして避け、人間精神の表現としてちゃんと成立している作品のみを安定して享受し続けられるかについて考えてみたいと思う。

はじめに言葉の定義をしておこう。上にあげた様々な表現媒体を、特にこだわりなく大雑把に作品と呼ぶことにする。作品は著作物を内容に含む商品のことである。また、無料でか対価を支払うかして作品を得ることを購入と呼び、作品の内容を知覚し、認識し、感動したり反感を抱いたりして受容することを視聴と呼ぼう。

二つの方策を基本的にはたてることができるだろうと思う。

1.無料あるいは低価格の作品に限って購入および視聴する

この方法は、実際に作品を視聴することによってリスクを排除できるところに最大の特徴がある。気に入らなければ途中で切ればよい。タダかタダ同然で購入しているので痛むところは極めて少ない。必然的に図書館、新古書店、マンガ喫茶、ツタヤ、等の施設をもっぱら利用することになる。最新の作品や新品の作品へのアクセス自由度は比較的低くなるが、クソ作品に当たった場合のダメージを極端に減らすことができる。何がクソで何がクソでないかの基礎的リテラシーを鍛えるためには最も良いと思われる。反面、マイナーな作品へのアクセス自由度はほぼゼロである。ネットにも例えばアマゾンで中古で1円の作品は売ってあるが、これらは送料を多めにとっているので結局341円支払うことになる。しかもネットだとマイナー作品は特に足下を見られ、電脳せどりがべらぼうな高額で出品していることが少なくない。自分の足で実店舗を利用した方が安い。マイナーな作品を視聴したければ顔を知っている知人との物々交換や貸し交換しかないが、そうすると人脈次第ということになってしまい、誰もが実行できる方法ではない。

この方策をとる場合、実は違法ダウンロードに手を出しても事情はそう変わらない。最新の作品へのアクセス自由度はツタヤやマンガ喫茶とほとんど変わらないであろうし、価格も1作品あたりせいぜい100円から200円程度しか変わらないだろう。多く見積もっても400円、500円くらいの差しかない。しかも違法ダウンロードは金を食わない代わりに時間を異常に食う。違法ダウンロードはその昔、知らない人同士がネットを通じてファイルを交換するソフトによって主に行われていた。今も本質的にはその延長線上にあると考えて良いだろう。顔見知りの知人同士では共有できる作品に限界があるので、ネットの力でみんなで共有しよう、という話なのだ。しかし考えてみれば図書館も古本屋もツタヤもマンガ喫茶も、似たような目的と機能を果たしているのではないか。顔見知りだけでは共有できる作品に限界があるので、全然知らない人同士でも(同じ地域に住んで)金さえ払えば共有できるようにしよう、ということじゃないんだろうか。図書館の場合は金はいらないかもしれないが。

しかしこれに関して例外的なのがゲームの場合である。ゲームは中古でも数千円するし、レンタルは基本やってないしで、実際に視聴してみることによるリスク排除を行うことができない。このような場合には、別の方策をとるしかないように思われる。

2.既に評価の高い作品に限って購入および視聴する

上記のように、ゲームに関しては基本的にこちらの方策をとるしかない。しかるがゆえにゲームは昔から「クソゲー」という言葉と表裏一体であったし、レビューと深い関わりを持ってきた。ファミコン雑誌でのレビューの点数が、売上を大きく左右した。今でもネット上のゲームレビューサイトは購入に当たって極めて重要な役割を果たしているし、2ちゃんねるでの工作は本当に売上を左右すると考えてよい。なぜなら既に述べたように、ゲームに関しては購入に先立つ前情報がほとんど全てだからだ。広告、レビュー、友人知人の感想、店舗でのデモ画面、そうしたものにしか触れることができない。逆に言えば、そうであるがゆえにそれらはゲームにおいて極めて重要である。フリーゲームと市販ゲームの違いは文字通りここに最も大きく表れている。フリーゲーム界におけるクソゲー率は市販ゲームのそれに肉薄するほどであるが、しかし感覚的にフリーゲームに良作が多いと感じられるのは、クソゲーを即切って無かったことにできるからである。

ゲームのみならず、マイナー作品に触れようとすればやはりどこかで2の方策をとらなくてはならない。だがマイナー作品に関してはマイナーであるが故に評価・感想・レビューなどのメタ情報が少ないという問題もあるだろう。また最新の作品の購入には1の方法は使えないので、2の方法をとるしかないが、しかし最新であるがゆえに信頼に足るメタ情報が少ないという、マイナー作品の場合と同じ問題がここにもある。

しかし2の方法は1と組み合わせることによってかなりリスクを下げることができる。1においてはクソ判別リテラシーが鍛えられると書いたが、具体的にはそれは作者について作風などの情報をインプットできたり、実際の作品に触れることによりどのレビュアーのレビューがどの程度的確かなどを知ることができるということである。ならばそれらのリテラシーをもとにして作者という軸や、レビュアーという軸でもって、メタ情報の少ない作品もある程度の信頼をもって購入することができるようになるだろう。

また、上記の通り考えることによって以下のことがするべきこととして挙げられる。

1の場合:ジャケ買いはどんどんするべきで、それによって知識を貯えることができる。名作紹介ムックをもとにリストを作り、それらを安価に購入して消化していくべき。リストの信頼性はとりあえず無視して、実作品に触れることが第一義である。

2の場合:ジャケ買い厳禁で、購入前に店舗内でもネットのレビューが常に確認できるようにしておく。また、知らない作家の作品は買わないようにする。気に入ったレビュアーのレビュー記事は持ち歩くようにする。

だがそうなると、何のための娯楽かわからなくなる。ショッピングにおいてはジャケ買いこそがギャンブル的に楽しいのだと言えなくもないし、そもそも娯楽のために「勉強」したり、慎重になったりケチになったりすることは娯楽を楽しむ態度としてどうなのか。それで気持ちよく娯楽作品を享受できるのか。たとえば出張や競馬などで地方へ行くために東京駅で電車を待っている間に、長距離電車の中でつるっと読める位のくのいち系の官能小説を売店で買う際にも同様の慎重さがなくてはならないのか。娯楽でなく芸術だったとしても問題は同じで、娯楽の場合おもしろいのかどうかが基準だが、芸術の場合は批評に耐えうるかどうかが基準になるだけである。批評に耐えうる作品を探すために同じようなことをしなくてはならない。しかし芸術業界のほうが娯楽業界より狭いのでそれだけ悩みは少ないのかもしれない。

しかしよく考えたら、こんなつまらないことを消費者に考えさせ、その負担を強いるのは、端的に提供する側の怠慢だし、クソを生み出すクソ作家どもが生きているのが悪いのである。故に最も即効性のある解決方法は、例えば本の場合は出版社などでクソ担当者をクビにしてもらい、同時にクソを生み出した実績のあるクソ作家にはしばらく出版の機会を与えないようにしてもらうことであるから、それをみんなで手紙にして出版社に送りつければよい。それでも出版社は動かないだろうから、不買運動を起こせばよい。その場合問題なのは、自分がクソだと思った作品を、みんながみんなクソだとは思わないということである。つまり連帯することが極めて難しい。洗脳されきった人びとはクソをクソだと認識できない。ゆえに、クソをクソとわからせるようにする教育が今後の日本に求められる。これは価値観の多様性とかに還元できる話ではない。ウンコを食べ物だと思っているかわいそうな人たちを啓蒙しよう、という話である。クソは性的なプレイの一環として食うことはあるかもしれないが、食料ではない。

そんな私が最近特にクソだと感じたのが、『妹がゾンビなんですけど!』というラノベです。あとがきに表れている作者の人間性からしてクソだし、話もクソだし文章もクソだし、どこをとってもクソの味がした。こんなクソは久しぶりだった。こんなクソに当たったのは。まれにみるクソだ。金を払ったんだから俺は書くぞ。クソのことはちゃんとクソだと言うぞ。俺の買ったラノベがクソなんですけど! ふざけんなよ! ブログに書くぞ!