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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

今日も芳林堂高田馬場店に寄ってしまった。思うに本屋を冷やかすこと自体が楽しいのだろう。

ギターが欲しい。

これ↓
http://item.rakuten.co.jp/39thanks/st62fr-trd/

ため息が出るほどかっこいい……。中学生の頃からもってるストラトキャスター(名前:レイラ)しかまともに弾いたことがないので、ストラトキャスターしかエレキギターの形としてかっこいいと思えない脳みそになってしまった。おそらく今後ギターを買うとしてもストラトしか買わないだろう。ストラト以外のギターは正直ダサい。ギターの音の良し悪しは分からないので、完全に見た目でしかギターを選べない。あとは便利さくらいしか判断基準がない。

帰宅してからアディダスのシャルルちゃんジャージに着替えてとなりの駅にある大きな公園まで走りに行った。一周が400メートルくらいある円形の道を4周した。それだけでバテた。家まで走ってその日のランニングは終わった。30分くらい走ったのではないか。走るのはきつい。自分との戦いだなどといわれるが、自分との戦いというよりも自分の肉体との戦いである。自分の動物的な部分と意志的な部分がせめぎあっている。ままならないことだらけの世界で、少しでもコントロール可能な領域を開拓するには、自分の強い意志がなければならない。意志を鍛えるために宗教家は苦行を行い、修行をおこなうのではないだろうか。非人間的な世の中で少しでも人間的に生きるには意志を鍛えねばならない。そのために勉強をするのでもいいし、そのために読書するのでもいいし、そのために体を鍛えるのでもよいと思う。一流といわれるスポーツ選手たちのインタビュー映像などをテレビでみると、激しい試合のあとなのにも関わらず、選手の様子が非常に賢者然としていることがある。特に野球の松井選手(ゴジラのほう)にはその辺の大学教授よりも理知的な雰囲気を感じる。知性を感じる。この印象、これが意志の強さなのではないだろうか。

だが、だらしなく生きるのもまた人間の人間的な部分である。動物はだらしなく生きるということがない。だらしない人をより動物的だと言ってしまったら、「そうじ力」「断捨離」とかなんとかいう珍奇な俗流人生哲学をふり回す怪しげな自己啓発セミナー主催者(兼著作家)たちの説を全肯定しなくてはならなくなる。ゴミ屋敷に住む人たちもやはり人間だ。むしろゴミ屋敷なんてものをつくるのも人間くらいのものじゃなかろうか。そうじ力だかなんだか知らないが、そのような言葉を広めることによって動くのはどうしようもなく金でしかない。そうじ力を高めようと本を買う人たちは、結局「そうじ」できずにまた新たな掃除本が出るのを待つだろう。そしてそのたびに「これなら私(僕)にもできる!」と思うであろう。「これで人生すべてがより良くなる!」と思い込むだろう。そうでなくては掃除本業界は枯渇する。掃除本周辺の人々こそ動物的であると何故言えないだろうか。

何が人間的で何が動物的なのかは未だ確たることを言うことができないが、テレビで言ってることを鵜呑みにする行為が動物的だということはわかる。それは行為ですらない。テレビに操作されているだけだ。何が人間的なのか、という問題はいろんな人がそれぞれに考えればいいことだと思う。それを問い続けることこそが、人間の証とも言えるかもしれない。その意識を欠いた人は確かに動物的だと言っていい気がする。