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hkmaroのブログ

読書の感想など

日記

日記をまたがんばって書こうと改めて思った。なぜかというと、ネット上の日記はこのインターネットが重要性を日に日に増していっている世の中において、アイデンティティの確立に非常に寄与すると考えられるからだ。アイデンティティっても内面的なもんだけではなくて、社会的にもそうだ。

それにしても日記をがんばって書こうと決意を新たにするたびに思うことは、書く事があまりにないということだ。これについては何をおいても会社が悪い。昼間の人間が最も活動的になる時間帯を全て会社のためにささげるというのはばかげている。奴隷の暮らしと一緒だ。奴隷だ。俺は奴隷だ。奴隷制なんて野蛮な制度は即刻廃止されるべきだ。奴隷制を廃止すべき、というテーゼには大抵の人が賛同すると思うが、これを「資本主義を廃止すべき」というテーゼ(意味内容的には前者に包含される)に置き換えると変な目で見られる。サヨクだということになってしまう。アホか。それが飼いならされた奴隷の辿る二重思考というやつだ。奴隷制はダメだが、現に奴隷制は敷かれていて、それを維持したいとすら思う愚民たち。

それでも会社から家に帰るまでの道のりを思い返せば日記にかけないこともないのだ。例えば今日も帰りに本屋に寄った。もう二度と行かない、などとこのブログでも書いたことのある芳林堂高田馬場店だ。やっぱり買うものは何もなかった。最近は思考がねじれてきていて、とにかくアマチュアでインディペンデントで素人臭いところにしか本当に良いものは存在しないのではないかと考えるようになった。純粋な芸術にはお金の入り込む余地はない。原理的にはないはずだ。もし芸術の本質に金が分かちがたく結びついているのなら、それは普通考えられている芸術ではない。つまり、いわゆる芸術はこの世には存在しないということになる。もしかしたらいわゆる芸術は存在しないのかもしれない。新しい芸術が育つのにも金が要るし、ペンと紙を買うのにも金はかかるし、作品を保護するのにも金がかかる。話はそれたが、ともかく、そういう妄想が激しいので、書籍として出版されて店にならんじゃったりしている時点でもう読む価値のない本だと思えてしまう。もちろん岩波文庫は別だ。じゃあ芸術作品としての本つまり小説つまり文学が読みたいのかというと、確かにその通りで、最近だと純文学をうたって登場する小説もあまりにクソなのがおおいというかしばらく前からクソしかないのでもはや新しい本を手にとってすらいないが、一方SF小説にはかろうじて「純」なところが残っているような気がなんとなくするので(本当に気がするだけだが)、J・G・バラードの小説を読んでみたりしているがこれがまた鬼のように退屈だ。電車で読んでいると八割の確率で寝る。しかし最後の10ページくらいで唐突にアツい展開になったりするから侮れない、というよりも性質が悪い。最初からそのテンションで来いよ! と心の中で叫ぶ。しかし今読んでいるのは上に「二重思考」などという言葉を使ったところからも分かるとおり『一九八四年』を読んでいる。

そういえば本屋に行く前に高田馬場に最近できた激安中華料理屋に寄ってギョーザ定食500円を食った。まさに500円の味がした。チャーハン320グラムが250円という驚きの安さ。あまりに安いと健康面が心配になってくるが、貧乏人には健康を心配する余裕が与えられていない。金と引き換えに、その日の食事と引き換えに、将来の命を売り渡しているのである。もし万が一仮にこの中華調理屋の料理が健康に良くないと仮定すると、その場合裏で中華料理屋を操っているのは厚生労働省日本年金機構に違いない。健康に有害な料理を若手独身サラリーマン層をターゲットにして安く食わしてやるのは、国民の高齢化を危惧する国家の判断としては優れていると言ってもよいだろう。緩やかに国民の寿命をコントロールしているのである。年金を払わせるだけ払わせて、受給年齢になる前に殺す。これほど巧妙な手はない。

家に帰ってフリーゲームの『さいはてホスピタル』を終わらせた。このゲームはネタが『イストワール』に似ているようであるが、しかし『イストワール』ほどキモくもなくて、感性としては『夜明けの口笛吹き』に似ている。しかし『夜明け』ほどあからさまに村上春樹的というかアーティスト風でもない。このゲームも商業では絶対に発売されないであろう類のゲームである。ゲームの完成度がどうとかいう話では全くなく、テーマ的に商業ベースのゲームを作っている偉い人たちには高度すぎて理解できない難しい問題を扱っているのだ。一般的なゲーム屋においてあるようなゲームを作る人たちは多分ほとんどの人がバカである。だからバカに受けるゲームを作れる。自身が頭いいのにバカに受けるゲームを作れる人はそうそういないと思う。結論としてかなり高い確率で言えるのは、芸術性や文学性をもつゲームはフリーゲームにしか存在しないということだ。あるいはもう一歩譲歩してもアマチュア製のゲームにしか存在しない。これは文学とかそのほかの芸術とかに比べてハッキリしている。やってみればわかる。ゲーム機立ち上げてやるゲームの空虚さ。それに対してその空虚さをも射程に入れることのできるフリーゲーム。知的に難解なのは明らかに後者だ。このことに関しては、コンピューターゲームの出自自体が企業の存在を前提としてきたことと深いかかわりがあるとおもう。芸術表現としてゲームを捉えること自体がゲームという枠組の中に存在していなかったのだ。とにかく金はらってやるゲームよりもタダのゲームのほうが、知的には面白い。