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hkmaroのブログ

読書の感想など

浅羽通明の『教養論ノート』

浅羽通明の『教養論ノート』がリーダーズノート社というところから復刊されたらしく本屋においてあったので買った。この本は先日私がこの日記に「どんな本を読めばいいのか」とか書いた時とあまりに同じ問題意識の元に書かれているように思える。

話の内容は大雑把にいって「タコツボ」とか「島宇宙」とかの単語が頻発する例のデカい話であり、人によってはポストモダンがどうしたとかいうであろうテーマである。

面白かったのは思想や哲学や、もっと言えば学問全体がそもそも現実逃避であると言っているところだ。細分化して専門化しすぎたタコツボは、現実の生活とはまるで関係ないことをシコシコやり続けて、しかもその専門的知識は小さな共同体に参加するための資格みたいなものに成り下がっている、という。思想や哲学が担うべきなのは人の生き方にかかわる部分であり、それに奉仕する限りにおいてのみ思想史や哲学史は学ぶ意義がある、ということになるだろうし、間違っても哲学史そのものは知識でしかなく、人の生き方は関係ないということになるだろう。庶民にとっては相田みつをとか動物占いとか俗流心理学とかのほうが処方箋として優秀である。というわけでこの本の中では浅田彰的なニューアカとかポスト構造主義とかそういうおフランスな知識人たちは苛烈に批判されている。そこは別にいい。しかし庶民にとっては相田みつをにも劣る現代思想には、やはり別の意味というか価値がある。専門としての哲学は、そういう庶民向けの精神訓話みたいな話が自己批判を何千年もかけて重ねてきた哲学史の歴史を踏まえているのであり、それはロゴス的な「現実逃避」がなければなされない。たとえばデカルトスピノザの幾何学的推論などはその試みであり、経験的な世界における精神安定の方法ばかりを追い求めていたのでは決して一生のうちには到達できない相、つまり永遠の相への近道なのである。まあ、デカルトスピノザの推論がそもそもの公理公準からしておかしかった、というのは批判されるべきだとしても、その試み自体は買うべきというか、それこそが専門としての哲学のやりかただと思う。というかそもそも言葉の価値とは色々なものにレッテルを貼って、そのレッテルを組み合わせて「いまここ」に無いものについて言及できるようになることにあるのであって、本質的に言葉に依存して生きている人間は生きていること自体がある意味現実逃避である。

とはいえ「役に立つものばかりが礼賛される世の中はおかしい!」とかっていう人文主義者たちの甘ったれぶりが目に余る今日この頃(かく言う私も「今すぐに」役に立つものばかりが礼賛される世の中はおかしいと思うが)、この本を読んでやたらスカッとしたのも事実である。良い本。